KAZUの完全復活を目指して

平成23年1月1日元旦の午前1時 年越しJOGの途中で転倒して大怪我をした。 大腿部と手首の骨折〜救急車の搬送〜2回の入院と手術を経て2月9日に退院。 そして退院後のリハビリ通院は79回をもって、平成23年6月29日に終了した。 さぁこれから、ここから、どこまで出来るのか、本当に復活(完全)出来るのか? 本気でヤルのか、情熱を注げるのか、そして過去を超えられるのか? 質問と疑問に対して、正々堂々と、決して逃げずに、答えを出してみよう。 こういう人生を、こういう生き方を、思い切り楽しんでみよう。 KAZUさんよ、タイトルに負けるなよ!

総武線の車内にて

2017.3.18(土)総武線各駅停車 千葉行き

三人のろう者に、話しかけよう(手話)とした。

三人の手話を見ながら、いまか、いまかと話しかけるタイミ
ングを計った。くるくる回る大縄跳びに飛ぶ込む(入る)よう
に、最初の入りが肝心だ。最初にスっと入る。あとはタイミン
グを合わせる。無駄な力は入れず、焦らずに、リラックスしな
がら軽くジャンプ。1〜2〜3〜ぴっよん〜1〜2〜3〜ぴっよん。

しかし三人の楽しそうな手話は、いっこうに止まらなかった。
グッドタイミングは見つからない。いや、それは違うだろう。
はなっから、タイミングなんてものは存在しない。

幽霊と同じだ。あると言えばあるし、ないと言えばない。別な
言い方をすれば、タイミングは探すものではなく、自分で作り
だす、あるいは、自分の中から発生してくるものだ。

それにたとえ手話を切り出す(会話に参加する)ときの、はじ
めのタイミングが良くなかったとして、その後の手話(会話)
でフォローすればいいのだ。普通の会話で考えたら分かる。
そんなことを、いちいちわたしが説明するまでもない。子ども
だって分かる。子どもなんか、お構いなしではないか。

ヘタレ爺、しっかりしろよ。その手を動かせば良いのだ!

一寸の虫にも五分の魂。わたしだって人間。些細なものだ
が、心がある。わたしが話しかけた(手話)ときに、果たして
三人のろう者がどういう反応をするかは、分からないのだ。

優秀な気象予報士だって、そんな予測はできやしない。
話しかけた結果は、新春の雪解け水かもしれない。冬の
路面凍結により、大いに滑って転倒するかもしれない。

しかし、宇宙の果てのように、まるで分からないことをいくら考
えたところで、結果は分からない。分からないことを不安に感じ
たり、まして行動を躊躇するなんて馬鹿げている。ナンセンスだ。
ある意味、わたしの存在自体が大いに馬鹿げているのだが....。

とにかく、この手を動かすんだ!わたしは、10本の指を見た。
男にしては、キレイな指だ。ささくれは別としても、綺麗な爪だ。
ただし、爪は長すぎた。しかし、ここで爪を切るのは、マナー
が悪いし、タイミングが悪すぎた。爪を切るのは、今夜の風呂
上りだ。もちろん、そのことを忘れていなければだが..。

いや、爪のことは、いま、ここで考えることではなかった。
いま、わたしが考えること、いま、わたしがやること。

わたしは、右手を前に、ゆっくりと、ひらひらと、差し出した。

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総武線の車内にて

2017.3.18(土)総武線各駅停車 千葉行き

わたしの正面に三人座席があり、そこに三人が座っていた。
三人は手話を使っている。三人はろう者(聴こえない人)。
その正面の座席の右端に、わたしはひっそりと座っていた。
息を潜めて、自分の正体を隠そうとする不審者のように。

わたしは唇の端を噛み、ひとしきり三人の手話を見た。

三人は、目まぐるしく手は動き、表情は変化し、身体の向きは
小刻みに揺れていた。その表情は楽しそうに見えたし、真剣
そうにも見えた。三人のろう者は、何かのために(目的)、どこ
かへ行くために(場所)、この電車に乗車した(手段)のは間違
いないだろう、というのが、わたしの見立て(推測)だった。

車内をぐるりと見回した。その三人を見ていたのは私だけだ。
そこのだれ一人として、三人のろう者に関心を寄せていない。

ほとんどの人は、わたしが大好きとは言えないスマホ画面
に穴を空ける為の尖った視線を、せっせと突き刺していた。
しかし、スマホは傷つかない。消耗、損傷、劣化、酷使に
より支障をきたすのは、スマホではなくて眼球のほうだ。

文庫本を読んでいるひとは、一人もいなかった。あるいは
スマホの電子書籍を読んでいたのかもしれない。どちらに
しろ、わたしを含めて、そこにいる人たちの多くは、慎重さ
と配慮と礼節に欠けた顔だった。「東北のほうで良かった」
と言った前復興大臣のように。

条例で読書感想文を書くことを強硬採決したら、気を失うか
気がふれてしまうか、すべてを投げ捨て無人島に移住した
ほうがマシだと主張しかねない面々だった。心配無用だ。
日本には意外と無人島が多いらしい。

となり同士の席で肩を寄せてコソコソ相談中の男女がいた。
おそらくは、銀行強盗の企てでもしているのだろう。映画
「明日に向かって撃て」をレンタルしたのかもしれない。
(できたら「ロッキー」あたりにして欲しかったが)

その男女の様子は、その会話内容に関わらず、豊かな表情
とは言えない代物だった。温かくなく、冷たくなく、美味しく
なく不味くない、すべてが中途半端なコーンスープのように。

口をヘの字にして目を閉じている男は、寝ているように見えた。
人生の苦難を逆怨みしているようにも見えた。ゲーム機の操作
に夢中の男の子は、将来の日本を任せられる人材として推薦
するには、いささかの不安を覚えた。

わたしが見回した車内は、ところどころに微妙な温度差が
生じていた。それは窓際だからとか、通気口に近いなどの
理由ではない。乗車した人の体温、体脂肪、年齢、年収
でもない。温度差は、実際に測定するまでもないし、測定
できるものでもない。ではいったい、それは何だろう。

わたしは腐敗中の頭を2回叩いた。温度差について考えた。
回答のない問題(難解な難問)の回答を、わたしは考えた。
活字として表現するのは、なかなかの困難だったが....。

人間にとって話すとは、会話するとは、どういうことで(趣旨)
なんのためで(目的)、そこに何を望む(期待)のだろう.......。
結果はともかくとして、わたしはそれをやってみた。

温度差の正体とは、その人の表現力であり、
その人の気持ちであり、その人の優しさである。
表現力の一部は表情であり、同時に、その大部分でもある。

昨夜の夕飯の問いに対して、答えに窮するだけでない。
何かにつけて鈍いわたしではあるが、その温度差はだけは
はっきりと分かった。自信を持って答えられた。

三人のろう者の座席、そこだけは、ほんわりと温かいのだ。
鳩が卵を温めている、あの木屑の温かさだった。

そこで、あらためて考える。そして、新たな疑問が湧いてくる。

あなたは「ありがとう」という言葉を使っているだろうか。
あなたは「ありがとう」というとき、あなたの顔は
「ありがとう」という表情をしているのだろうか...。

わたしたちの会話に、果たして、本当に、本心の
心模様を、その顔の表情に現れているのだろうか?
また、しっかりと表しているのだろうか.....。

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総武線の車内にて

2017.3.18(土)総武線各駅停車 千葉行き

楽しそうに三人の会話(手話)は続いていた。

わたしは、三人の様子を真正面から凝視することに
幾分かの躊躇を感じた。わたしは目線を上に外した。

向かい合う三人席(南側・北側)の間につり革があった。
しばらくのあいだ、三人の上部にある、つり革を眺めた。
ほとんど揺れない。まるで冬眠中のカエルのようだ。

昔のつり革は感情があり、自己表現があり、まん丸い吊り
輪には昭和の趣があった。電車の振動の際は快く付き合い
快く反応して、快く揺れた。あの丸い吊り輪を愛するのは
今では、日本体育大学などの体操選手だけかもしれない。

つり革を握る人はいない。ぶらさがりながらスマホに夢中の
人もいない。すべての座席は埋まり、すべての吊り輪は空き
地に不法投棄されたゴミのように誰もが見て見ぬふりだった。
ラッシュ時には、つり革2本を独占する人もいるというのに。

わたしは不人気なつり革に哀愁と親しみを感じた。わたしに
似たせいかもしれない。事実上、つり革を実行支配する電車
の中では、乗客の質と量は、そこそこであり、スカスカだった。

すっきりした表情で、そこそこのスカスカ電車は走り続けた。
レース中にトイレに駆け込み、排泄物を排泄したあとの市民
マラソンランナーのように。

走っては止まり、走っては止まる、遅延証明を気前よく大量
発行する総武中央線各駅停車。しかし、心配無用。今日は
銚子鉄道のような春の小川感覚をさらさらと漂わしていた。
終点の千葉駅まで走るスタミナ計算は、必要ないようだ。

座席に座るわたしは、両膝の上に軽く両肘を乗せた。
比較的軽めの前傾姿勢にした。この姿勢が前向きに
見えるか、または疲れた人や悩める人に見えるか?
わたしを見る人の判断に、全面的に委(ゆだ)ねる。

わたしは人の目(他人)を気にしない。必要ない。良し
悪しは別として、いまとなっては、不要になったのだ。

若い頃、私は人の目をいつも気にした。よく鏡(かがみ)
を見た。鏡の中の自分に対して、理由もなく微笑んだ。
1000円カット(現在)の5倍を支払い、わざわざ表参道
のカリスマ美容師がいるカルスマ美容院にも行った。

わたしが、そうすることは、それなりの恩恵を受けられた
からだ。恩恵について1つの例を上げると、異性からの
アプローチだ。他には異性へのアプローチ。または異性
への急接近など、理由はイロイロであり、エロエロだった。

世界中の女性は、20代のわたしに注目した。それが30代
で半分になり、40代はゼロになった。もちろん、このさきに
V字回復は見込めない。永遠のゼロ。いま、わたしに微笑
みを投げ投げかける女性はいなくなった。正確を期すため
に補足説明しよう。例外的に、妻だけははわたしに微笑む。
ただし、妻がわたしに微笑んでくれるのは、わたしの在宅
時ではなく、外出後である。

もし、わたしに心を許すような(そう見える?)女性がいる
としたら、それは商業的な見返りを期待してのものだ。
女性たちは、劣化中のわたしではなく、劣化しない聖徳
太子やクレジツトカードに対して、満面の笑みを咲かせる。

それが証拠に、女性たちはわたしの所得を察した段階から
表情が段階的に変わる。最初の微笑から、微笑みを後悔す
る苦笑いになり、最後は微笑軍を完全撤退させるのだ。もう
そこには組織的行動はなく、表情と呼べるものは、何ひとつ
残さない。無関心+無表情+無反応=眼中なし(別世界)。

しかし、時は過ぎる。それは確実であり、公平である。わたし
だけではない。商業的な見返りを求める美容整形美人にし
ても、来るべき消費(賞味)期限は来る。その期限は小学校
卒業式スピーチのように、長いようで短かかった6年間という
のが相場だ。女性が少し長めの溜息をついたら、それで終
わってしまう。はぁっ〜〜〜〜あぁ〜〜〜〜という間である。

とにかく、わたしは、人の目を気にする恩恵がなくなった。
正確には、まったくないとまでは言えないのだが、ようは
コストパフォーマンスの問題。努力の甲斐は、なくなった。

しかしだからと言って、ここで終わらない。それが、わたし
という欲深くて罪深い人間だ。転んでもタダでは起きない。
大腿骨と手首を骨折しても、筑波マラソンは諦めない。
「座して死を待つ」に対して、断固としてノーと答える。

わたしという人間の容量は、小さ目のコップ一杯分。
もともとはそこに、たっぷりの新鮮な水が入っていた。
コップの水は、経年により乾燥して、徐々に減少する。

その減少分を補うために、わたしは従前の水ではなく
新しい水分を補充する。その新しい水分が、マラソン
ギター、手話、執筆活動だ。評価されない小説を懲り
ずに書き続ける理由は、ここ(水分)にある。

ここ8年くらいだろうか、わたしはすこぶる機嫌がいい。
覆水盆に返らず。コップの水が、どんどん減ったからだ。
にやにやしながら、わたしは新しいもの、新しい価値観を
自分の中に放り込んで(補充)やるのだ。自分を新しくする
以上に、楽しいものが他にあるのだろうか...。

(ふぅ〜、もう分かった!KAZUさん、はなしを戻してくれ)

これまでのわたしの僅かな鋭意努力、大きな偶然の産物
大いなる出会い、大いなる不運と小さな幸運により、不要
なものは排除して、必要なものは加えてきた。

さて、わたしからアクションを起こして、手話べりする
環境(電車内)は、申し分ない段階に到達したようだ。


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