映画が終わったら、つっかえ棒がガクッと外れたようにボクはドタバタした。
ドタバタの原因は基本的に映画とは関係がない。スマホの電源を入れたら、
袋とじの週刊ポストのように少しじらされてから、ボクを試すようなきわどい
数値がパッと液晶画面に表示された。アリオ亀有の駐車時間の3時間無料
(映画鑑賞)まで、あと3分しかない。駐車場の車まで急いでも間に合わない
可能性がある。有料になることを覚悟のうえで勝負弱いギャンブラーの顔に
なるか、昼食と買物して無料の駐車券をゲットして、景気回復に少し貢献した
消費者の顔になってから、胸を張ってどうどうと帰るのか。ボクは迷っていた。

扇風機を回すように、首を起点に大きさのわりに中身のない頭を左右交互に
ぐるっと回してみた。冷静になりたいときのボクは、意識して、または無意識の
うちに、そのどちらによって頭をぐるぐると回すことがある。お地蔵さんのように
辛抱づよく同じ姿勢で映画を観ていたので、本当なら10回くらいは連続して回し
たい気分だったけれど、映画を観た人が親爺のぐるぐる回しを目のあたりしたら
「風立ちぬ」の余韻が台無しになるかもしれない。あるいはならないかもしれない。
念には念を押して、自発的に妥協をして、ボクは頭回しを左右1回だけで止めた。
しかし、送りバンド失敗後のクリーンヒットのように、結果的に妥協は正しかった。

電子レンジがチンと教えるように、頭をぐるっと回した瞬間に正解が分かった。
頭の中にある電子レンジを開いてみたら、シウマイを温めたときのようなシュ〜
という蒸気が立ち上り、風船のようにふくらんだラップには「どうでもいいです」
と表記があった。小学校に掲示されている太字の「廊下は走らない!」のように
駐車券のことなんか「どうでもいいです」、たしかにその通りだ。

そんなことに頭を使うより、もっと他に考えなくてはいけないことが、マクドナルド
のようにいっぱいある。もちろん、不完全な頭で考えることは、きわめて不完全
なことだ。たとえば、ゼロ戦の設計はできないし、まともな小説さえ書けない。
結核の治療はできないし、アニメ制作と、「ひこうき雲」だって上手に唄えない。
だからといって、何も考えなくていい訳ではない。不完全な頭で考えたところで
不完全で抽象的で中途半端な結果しか出ないだろう。きっと、たぶん、おそらく。
答えが出ない?そうだ。答えなんかでない。それでいい。不完全な頭を使うため
には、あるいは継続的に鍛錬していくためには、解けない難問に挑むしかない。

蜘蛛の糸が吹っ切れたように、空腹の鼠ように、ボクはテキパキと動き出した。
ユニクロの足の長い店頭マネキンが着用していた七分丈のカーゴパンツを買い、
中華屋さんのランチ写真の1番上にあった半チャンラーメンを食べて、スタバで
一番安かったアイスコーヒーを飲みながら、クリームパンのように柔らかいソファ
に座って、「グアムと日本人」戦争を埋め立てた楽園(山口誠)という本を、1時間
10分のあいだ、集中して読んでいた。

それから、跡形もなく全部の氷が解けきった初心を忘れたアイスコーヒーの残りを
貧乏臭くずるずるとすすりながら、あらためて「風立ちぬ」のことを考えてみた。
平日の9:30からの上映にもかかわらず、座席の90%は埋まっていた。大五郎を
乗せた子連れ狼はいなかったけれど、小学生くらいの子連れのお母さんが以外と
多かった。若者たちとカップルもいた。ボクの両隣りは、ともにご年配の御爺さん。
学生風とOL風、ボクのような、ひとり親爺もいた。早い話が老若男女である。

このような老いも若きもの老若男女を対象とする、つまり商業的成功を目指した
場合の歴史と戦争について、製作者側がどこまで踏み込むのか、踏み込める
のか、あるいは口当たり良くさらっと流すのか、その境界線をどこに引くのか。
ボクは思った。境界線の引き方が後退してきているのではないかと・・・・・。

ぐっと前に踏み込んだら、逃げる、あるいは拒否反応。それでは伝わらない。
それにスポンサーがつかない。映画はヒットしない。
では境界線を下げる。あえて踏み込まない。しかし、それでは伝わらない。
「風たちぬ」が伝えたいこと、感じて欲しいことは、いったい何だろうか。
小学生に伝わるのか、ご年配の方の情感に訴えたのか。
それが分からない。分からないのは、ボクがズレているから、なのか。
不完全な頭には常にその可能性がついてくる。
「終戦のエンペラー」を観てから、また、考えてみようと思う。

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