こぼれたミルクを嘆いても仕方がない

もとからの顔なのか、普段からの眼つきなのか、そこの判断はつかないが
慌てて駆け付けた警備員のひとりが、とても怖い顔をしてボクを睨みつけた。
もう一人の銀縁のメガネを掛けた平凡な顔の警備員が「大丈夫ですかぁ?」
と言いながら、顔面が血だらけのぽっちゃりくんの後ろから、脇の下に両手を
入れ持ち上げるようにして抱き起した。平凡な警備員の顔も真っ赤になった。
無益な本と無駄な雑誌がぎっしりと詰まった本棚のように、重たそうだった。

すべての批判が1つになり、その視線の全部が、ボクだけに向かってきた。
世界中の冷蔵庫を同時に開けたように、冷やっとした特別な寒さを感じた。

”ちょっ、ちょっと待ってくれよぉ、俺の話しを、俺の言い分を聞いてくれよぉ。
これは事故みたいなものだって、違う?いやそうじゃない、言い訳じゃない。
本当のことを言うから、良心に誓って真実を話すから、まずは落ち着いて。
話せば分かることだから、興奮しないで行きましょう、まずは冷静になって”

なんだか、かつての江川卓のようなことを言っているな、とボクは思った。
自分の声が、いつもの自分ではなかった。つまり、ボクは冷静ではなかった。

そのとき、ぶるぶると震える両手の血を見ていたぽっちゃりくんが怒鳴り始めた。
「このひとが、いきなり殴ってきたんだ。何もしていないのに、いきなり殴ったんだ。
この血を見てくれ、鼻が折れているんだ。警察と救急車をすぐに呼んでくれぇ〜」

どこか変なところから無理して出しているような、おかしな声だった。首をぎゅっと
締めたときの豚の悲鳴みたいだ。こんなときに笑うべきではないと分かっていたが
自制しようと思えば思うほどに、ボクは笑いたくなった。もしここで笑ったら、大晦日
の”絶対に笑ってはいけない”のように、お尻をバシン!バシン!と叩かれるかも
しれない。叩かれないかもしれない。しかしどちらにしても笑ってはいけなかった。
だけど、ダメだった。ぷっぷっ!ぶふぁ〜はっはっはっ〜ふぁ〜はっはっはっ〜。
It is no use crying over spilt milk こぼれたミルクを嘆いても仕方がない)。

「おまえっ〜何がおかしんだぁ?!」ぽっちゃりくんが発情期の豚みたいに吠えた。
短気なウサギのように目が赤く充血していて、ビア樽のような体躯が、わなわなと
震えていた。ブータンシボリアゲハ(蝶々)を目の当たりにしたような、信じられない
驚きの目でメガネの警備員がボクを見た。”こいつは何者なんだ”、と言いたそうに。

ひとしきり笑ったら肩の荷が下りたようにすっきりとして、ようやく落ち着いた。
酸素と二酸化炭素の出し入れが正常なリズムになると、ボクは冷静な親爺になる。
「ぽっちゃりくん、笑ったことはボクが悪かったよ。ごめん。だけど鏡を見てごらん。
ぽっちゃりくんのお鼻が真っ赤なお鼻のトナカイサンみたいに・・・ぶふぁはっはっ」

やっぱり今日のボクは、どこかのタガの1本か2本か、それ以上に外れていた。
まぁ、しょうがないか。こっちだって切ったら赤い血がでる生身の人間なんだから、
その日、その時のバイオリズムによって多少の浮き沈みがあるのは仕方がない。
ただしかし、それがよりによって、今日と言う日だったとは・・・・・。
これって、もしかして運命か?ベートーベンか?そんな馬鹿な!そんなバナナ!
マイナーからメジャー、まず気持ちを10秒間で切り替えよう!
か・ず・や・く・ん・が・こ・ろ・ん・だ って10秒、うん?これって洒落なんねぇ〜!
まぁ〜いいか、そうそう、そうだよ、転んだら立ち上がるんだって!


涙の分だけ、強くなれ。傷ついた分だけ、優しくなれ。
打たれた分だけ、大きくなれ。負けたくないなら、強くなれ。
転んだら何度も、立ち上がれ。「今に見てろ」と、笑ってやれ。
折原みと(少女漫画家・恋愛小説家、1964〜)「強くなれ!」

20121009122410552