短歌の番組(NHK)に出演していた阿木庸子が話していた。
それが「制約のなかに喜びがある」である。ボクはテレビを見ながら
”あぁ〜そうか、なるほど、たしかにそうだなぁ〜”、とボクは肯いた。
そしてこのフレーズ(言い回し)を、ボクはちょくちょくと想いだすのだ。

阿木庸子が話したときの状況を、記憶の底から引っ張り出してみる。
まるで、あのキリストのフレスコ画を復元しようとした(?)セシリアの
おばあちゃんのように、なんとか修復(説明)してみよう。

短歌と作詞の共通点として、その良いところは制約だと思います。
作詞をするとき、1番と2番の言葉数を揃えたり、表現方法を併せたり、
制作上の制限がいろいろとあります。ただそれを制約と考えると、とても
不自由に感じてくるし、何かしら窮屈な気持ちになります。
でも実際には、それは違うんですね。

たとえば逆に考えてみましょうか。作詞をするときに、なんの制約もなく
好き勝手に、どうぞ自由に作って下さい、と依頼されたとします。
それって困りますよね。そういうのは、自由であって自由ではないんです。
そういうのは、じつはとても恐ろしいことなんです。あなただけ信号を守ら
ないで運転しても良いです、と言われるように。つまり、制約の本質とは、
それを縛るものでもなく、縛られるものでもなく、こちらを守るもの、守られ
るもの、それが制約なんです。

作詞活動で言うと、その制約の中で考えていた歌詞がピタっと出来たとき、
それは何ともいえないような高揚した気持ち良さと、自由さを感じるのです。
わたしはこれが、短歌と作詞の共通する表現の喜びと自由だと考えます。
制約のなかに喜びがあり、制約があるからこそ自由になれる、と思います。
(阿木庸子の発言を、自分が想いだしたものです)


ボクは、最近こう思うのです。自分の思うこと、考えることや、感じることなど
つまり自分の喜怒哀楽はつねに正しいと思うこと、それが人間の愚かさでは
ないかと。例えば誰とは言わないけど、20代前半の頃に白いセリカに乗って
深夜の高速道路で170kmで走ってた奴がいたんだけど、そのときにそいつは
そういうことが楽しいと本当に思っていた。それは、間違いない事実なんです。

つまり制約は破った方が楽しいと思っていた。警察にさえ捕まらなければいい、
事故らなければ良いと思った。もしかしたら、そういう状況に陥るかもしれないと
考えない訳ではなかったけど、そういうことは単に考えたくなかったし、面倒から
つねに逃げようとしていた。多少の悪さを自覚していたが、バレなければ良いと
思っていた。自分だけがそうならなければ良いと、都合のいいことばかり考えた。

いま考えると、それは余りにも無責任であり、物凄く社会性、公共性の欠落した
考え方、生き方だったわけだが、そのときはそういうことが全く分からなかった。

そいつはいま、乗っているコンパクトカーから軽自動車に買い替えるらしい。
そしてそいつはいま、制約を守ることが当たり前であり、当然だと思っている。
ここで言うまでもないが、非合法薬物はもちろん、合法的な煙草さえ吸わない。

ビクビクしながら、コソコソしながら制約を破り、一時的な快楽を享受することが
そのひとの優先順位になってしまったとしたら、そういう思考による行動が最終的
に行きつくところは、鏡を正視しない自己否定という場所ではないだろうか。
そしてその現実として、その果実を嫌々(いやいや)でも受け取らなくてはいけない。

「制約の中に喜びがある」、阿木庸子の言う通りだとボクは思うのだ。
「俳句を習いたいなぁ〜」、と最近のボクは思うのである。

「自由」や「権利」を主張するときには「義務」「ルール」
そしてある意味での「リスク」を負うのは当たり前でしょ。
でもそういうのを抜きにしての「自由」が横行しているよね。
鳥のように自由に空を飛びたいなんて言うのは勝手だけど、
鳥が飛ぶために何万回翼を動かしているか、よく見てごらんってこと。
北野武(タレント・映画監督・俳優・コメディアン・漫才師、1947〜)

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