あなたにとって生き甲斐とは?

生き甲斐を失くしている母親を、いつも心配している一人娘。
しかし、娘には娘の夢がある。これから娘は東京へ旅立つのだ。

娘から母へのアドバイスに対して、それまでは九十九里海岸の
ハマグリのように押し黙って聞いていた母親が、猛然と反論した。
母は、その肩を上げて、その肩を落とし、目を開いたり、伏し目
がちになったりしながら、じつに重苦しい胸の内を展開した。

(母親の反論)
生き甲斐だって?そんなの無くたって、あたしは生きていけるわよ。
だってそうでしょう、世の中、みんながみんな生き甲斐をもって楽しく
生きている訳ではないでしょう。ただ何となく生きて、ただ死んでいく。
そういう人だって沢山いるでしょう。あたしの場合は、こういう環境
なんだから、仕方ないじゃない。つまらない環境、つまらない人生。
そうよ、だってこれがあたしの持って生まれた運命なんだから!

突然の反論を受けた娘の表情が変わった。ショートヘアの下の
大きな目が更に大きくなり、赤くなり、斜め上にギュッと吊り上った。
余裕のないメスキツネが怒ったときの目だ。プチッと、娘がキレた。
母親に娘がキレた。娘が地元の友達と一緒に踊る地方再生ダンス
のキレとは、あきらかに種類の違うキレだった。

(娘の反論)
つまらないのは環境じゃない、お母さんが、つまらない人間なのよ!!


わたしは舞台の5列目の端に座っていた。目の前の舞台からの台詞
が吹き矢のように飛んできて、わたしの胸にグサグサと突き刺さった。
このお蔭で、私はなんども確認することになった。わたしの左胸に、
ポッカリと穴が空いていないか...。グサグサ〜ポッカリ〜グサグサ。
さらに、真っ赤に燃える火鉢のような熱い会話の応酬が続く。

(娘と友達、娘から友達への愚痴)
環境のせいにしたり、誰かのせいにしたり、何かのせいにしたり......
そんなことが問題じゃないのよ。結局は、本人にやる気が無かったら
生き甲斐なんてものは、見つからないのよ!

(娘と友達、友達から娘への反論)
確かに..そうかもしれない。でもね、そういう人に何かを気付かせて
あげるとか、キッカケを与えてるとか。そういうことは家族や、周りに
いる人の役目というか、優しさというか、そういうことなんじゃないの!

西新宿の関公協ハーモニックホール、”天使の森からの贈りもの”
という舞台を私は観ていた。(2015年4月3日(金)14:00〜15:30 )
わたしは一人で電車に乗り、ひとりで座り、ひとりで笑い、ひとりで
考えたり、一人で手を叩いたり、一人でポロポロと涙を流したりした。

わたしが貴田みどりさんの舞台を観劇するのは、これが三度目である。
わたしは、そのうちの2回は泣いている。もちろん、正確に説明するなら
最終的には、三回とも笑っているのだが。

手話を勉強している私が、貴田みどりさんにお会いするのは、少年野球
のイチロー選手への憧れと同じである。イチロー選手に褒められた少年
が高揚して 「僕は、将来メジャーを目指します」 と同じように、みどりさん
から、手話検定1級の受験を「凄いです!」と褒められた私は「手話通訳
士を目指したい!」 と手話(説明)をしたのだ。そして、天使が微笑んだ。

わたしは”天使の森”のような、みどりさんの笑顔を目の当たりにする。
満開のソメイヨシノが思わず嫉妬を感じてしまう、優美な笑顔である。
そして、わたしは思った。もっともっと、手話が上手になりたい。
こういうふうに、下の方からフツフツと湧き上がってくるのが天然温泉
であり、または、私の生き甲斐だと、わたしは思ったのだ。

総武線の各駅停車千葉行きの座席に揺られながら、わたしはスマホの
写真を確認した。みどりさんとの写真をニタニタと眺めながら、わたしは
考える。これまでの私の生き甲斐とは、あらためて、何だったのだろう?

(これまでの、わたしの生き甲斐について)
思春期のときは、大人みたいに遊ぶことだった。
サラリーマンのときは、課長島耕作みたいに出世することだった。
脱サラしたときは、ハヤブサみたいに事業を軌道に乗せることだった。
プチメタボのときは、東山紀之みたいに、身体をギュッと絞ることだった。
マラソンのときは、快速ランナーみたいに3時間切り(サブスリー)だった。

反対方向に大腿骨が折れる〜手術〜車椅子〜リハビリ〜、私は考える。
わたしは、いろいろなことを、いろいろな方向から、いろいろと、考えてみる。
これまでの私の生き甲斐は、果たして、本当に、正しかったのだろうか?
いや、その答えは明確だった。もちろん、なにも悪くない。なにも問題ない。
そのときは、そのときに、そのときの頭で、私が感じて、私が考えてきたのだ。

ただ1つ、いまの私が考えるところ(部分)がある。
これまでの私の考え(生き甲斐)は、いつも私が主体となっていたことだ。
もちろん、当然である。わたしの人生は、私が主役(主体)だから。
まず、優先順位はわたしである。いつでも表側は自分(家族等含む)である。
その上で、その後で、自分の後に、自分以外が良くなる、という順番だ。
自分さえ良ければいいとは考えないが、あくまでもスタートは、自分だった。

就職は、職種や仕事内容より、大企業で安定している(給与)ことだった。
脱サラは、従属的なサラリーマンより稼げることだった。
社会のためとか、お客様のためとか、仕事に誇りを持つとか、やりがいとか
そういうものを最初に考えて、わたしはスタート(選択)した訳ではなかった。

例えば、第三者のための募金(裏側)はするが、募金活動(表側)はしない。
ボランティア活動の後方支援(裏側)はするが、自分では(表側)やらない。
自分は裏側にいる人間だから、そういうことは表側にいる人間がやればいい。
表側と裏側を1枚の紙に置き換えたら、そこにはハッキリした線が引いてある。
わたしは、このハッキリと区分けされた線の内側にいる、安定している人間だ。
そう考えていたのだ。そういうものだと、わたしは思っていたのだ。

わたしに、ことの本質を気付かせてくれたのは、ほんの一瞬のことだった。
それは、私の意志ではなかった。わたしは転倒して、左大腿骨を骨折した。
手術〜車椅子〜リハビリ〜。わたしは、あの線の内側から外側へ行ったのだ。
いやおうなく、あっと言う間もなく、一瞬のうちに、私はあの線を越えていたのだ。

そのときになってから、その後になってから、わたしは少しづつ分かってきた。
いままで線の内側にいたこと、わたしは傍観者だったこと。いままで線の内側
から眺めていたこと。わたしは、今までは、対岸の火事だと思っていたのだ。

外側に入った私が、内側にいたときの、わたしに対して思うこと。
わたしが内側に戻ってきたときに、わたしが考えなくてはいけないこと。
これから、わたしが取り組まなければいけないこと。

これまでのように、わたしは内側にいてはいけない。
外側のことは、それが出来る人がやれば良いのだ、と考えてはいけない。
わたしは、この線の外側に行かなければいけない。
今度は、わたしの意志で行く、わたしは主体的に行動するのだ。

この想いを具現化してくれたのが、わたしと手話の出会いだった。
NHKの「みんなの手話」に出演している、貴田みどりさんとの出会いだった。

わたしは、手話学習と手話サークル(ボランティア活動含む)を通して、
こうやって線の外側に自分を置いて、わたしは楽しく活動する。
線の外側にいる人と一緒に、心を通わせることが出来る。
(外側に一歩踏み出せば、私の下手な手話でも、ろう者は喜んでくれる)
線の内側から外側に行く人(手話勉強中のひと)と価値観を共有できる。

(そして、ここからが大事なことである)
線の外側にいると、ここは線の外側ではなくて、線の内側にいることが分かる。
この線が怪しくて、あやふやなで、誤解や偏見や差別を発生させるのが分かる。
ただ現実問題としては、この線が存在するのは否定できないことだ。
しかし、この線をもっと薄くしたり、あるいはもっと見やすくしたり、線の高さを低く
する等の取り組みを立案企画、実行するのは、ほんの一部の人間だけではなく
社会全体で共有するテーマ(課題)として取り組まなければいけない。線に対して
社会はもっと自然に、もっと優しく、もっと自由に、寛容で温かくなければいけない。

いま、わたしには生き甲斐(夢、目標を含む)がいっぱいある。
たとえば、マラソンを走りたい。たとえば、手話通訳士になりたい。
マラソン、手話などの体験を題材にした小説を書きたい。

あらためて、わたしが思うことがある。
わたしの生き甲斐とは、まさしく昨日の舞台の台詞の如くである。
いろいろな場面で、いろいろな人との出会いがあり、いろいろなことがヒント
になり、キッカケとなり、アドバイスがあり、わたしは支えられてきた。
そういうことが集約されて、わたしを創ってくれた(ここを、忘れてはいけない)。

これが、このわたしの生き甲斐になっているのだ。

人間の生きがいとは、自分が誰かの役に立ち、誰かを一瞬でも
幸福に出来ると感じることに尽きると私は思います。
瀬戸内寂聴(小説家・天台宗の尼僧、1922〜)『人生道しるべ』

DSC_0028