白い目で見られることに、わたしは慣れていた

足は地に付かず大地から3cm浮いていた。ふわふわ〜わくわく高揚していた。
55年6ヶ月のマイライフ、初めての狂言。強力磁力に吸い込まれるように、私の
前を歩く人たちは、国立能楽堂へ吸収されていく。その流れに便乗して、アジの
群れに追いついた老いぼれ古魚のように、私の身体も国立能楽堂の入場口に
吸い込まれていった。

そのときほんの一瞬のあいだ、わたしは健康ランドのお風呂を思い浮かべた。
檜(ひのき)の匂いだ。目の前の平屋建ては、檜っぽい日本風の日本建築だ。
国立能楽堂は、規律を重んじる古風な感じと歴史的威厳をさりげなく装いながら
強力な自己主張をしていた。まるで浅草ロック座のストリッパーのように、惜しみ
なく大胆不敵に、その実力をわたしに見せつけていた。

”これが噂で聞いた、あの国立能楽堂だったか!”声に出さずに、私は唸った。
こと歓楽に関することは、わたしは10代後半から、かなりの広範囲をカバーした。
ある部分では深く掘り下げて、自主的に、積極的に、真面目に、体験学習をした。

その努力成果は実に素晴しいものだった。早稲田大学に近いところにある伝統の
早稲田予備校に、60数万円の年間受講料を無収入の両親に負担させ、わたしは
無試験で入学した。そしてその授業を受ける真面目な受講生たちが、快適に勉強
が進むように、わたしは教室には行かずに、高田馬場のビッグボックスや、新宿
歌舞伎町等に頻繁に向かった。そういう行いについて、誰もわたしを責めなかった。
誰もわたしを褒めなかった。ただ、他の予備校生や講師が私を見るときの目の色は
やけに白かった。しかし、それはそんなに気にならなかった。白い目で見られること
に、わたしは慣れていた。慣れ過ぎていた。わたしの人生は脇道にそれていく。
わたしの話しも脇道にそれていく。話しを蔵前橋通りに戻そう。

わたしは歌舞伎町には程よく馴染んでいたが、歌舞伎にしろ能楽にしろ、いわゆる
伝統芸能と称される文化芸術的伝統娯楽は皆目わからなかった。”からっきし”だ。
戸籍謄本を見たところ、わたしは東京生まれの東京育ちのようだが、東京に詳しい
外国人より、東京に詳しい田舎者より、私は東京の街を詳しく知らなかったのだ。

誰か人を批判したいような気持ちが起きた場合には、
この世の中の人が皆自分と同じように恵まれている
わけではないということを、ちょっと思い出すべきだ。
フィッツジェラルド(20世紀前半の米国の小説家、1896〜1940)
『グレート・ギャツビー』

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