KAZUの完全復活を目指して

平成23年1月1日元旦の午前1時 年越しJOGの途中で転倒して大怪我をした。 大腿部と手首の骨折〜救急車の搬送〜2回の入院と手術を経て2月9日に退院。 そして退院後のリハビリ通院は79回をもって、平成23年6月29日に終了した。 さぁこれから、ここから、どこまで出来るのか、本当に復活(完全)出来るのか? 本気でヤルのか、情熱を注げるのか、そして過去を超えられるのか? 質問と疑問に対して、正々堂々と、決して逃げずに、答えを出してみよう。 こういう人生を、こういう生き方を、思い切り楽しんでみよう。 KAZUさんよ、タイトルに負けるなよ!

2013年05月

ビニール本(11)

2013.5.31(金)
05:20〜05
:55/ストレッチ・軽く筋トレ・ゆる体操
06:00〜06:45/入浴、ストレッチ・正座
08:30〜09:30/経絡治療院

17歳は、あまりにも矛盾と欺瞞の世界に拘束されている

たくさんの仲間をかき集めてきた雲の集団は、数にモノを言わせて妨害行為をする。
それは自己主張の一貫として、嫉妬心の1つとして、偉大な太陽に向けられたもので
あるが、それでも雲の集団がチームワークを乱したり、ちょっとした隙(すき)を見せたら
そのわずかな合間から太陽光線は手加減することなく、地上に向かって光をサンサン
(SUN〜)と降り注ぐことになるし、疲弊した雲の集団がヤル気をなくし解散してしまったら
それまでの鬱憤(うっぷん)を一気に晴らすように、その力量を誇示するように、太陽は、
より強い光線を大地に投げつけてくるだろう。そして、二子玉川の貴婦人たちは、紫外線
対策のサンバイザーとUVアームカバー、そして上品な日傘を購入する。

光があたれば影ができる。太陽光線に照らされた優等生と影になった劣等生。
光り輝く序列(成績)があれば、そこにはもう1つの暗黒の序列(不良)ができる。

いま(52歳)になって、このブログ(自伝小説もどき)を書いているのは、”日本には
四季にプラスして梅雨がある” と同じように、そこには確固たる理由が存在している。
あの頃のボクは、17歳のボク自身について、リアルタイムで正しく表現できなかった。
「400字詰の原稿用紙を3枚使って”勉強とわたし”について説明しなさい」 と宿題を
出されたとして(出されなくても)、17歳のボクは「勉強が嫌いだった、頭が悪かった、
遊んでいる方が楽しかった」 という3つの短いセンテンスしか書き込めないのだ。

そして、それはたぶん 「今の17歳にしたって、たいして変わらないだろう」と思う。
平成生まれの高校生は、当時のボクよりは幾分はましだとは思うが、それでも所詮は
5〜6つの文章とか、原稿用紙に半分とか、その程度ではないだろうか。または、
もっとシンプルに「うざい、だるい、きもい」 と言うかもしれない。言わないかもしれない。
どちらにしてもそんなことは、50歩100歩とか、どんぐりの背比べとか、牛丼と牛めし、
つまり、その程度のことだ。

それは本当に ”残念なこと” なんだけど、それは同時に ”仕方がないこと” でもある。
なぜなら17歳は、
あまりにも矛盾と欺瞞の世界に拘束されているからだ。高校生は
大人ではないし、そうかと言って子どもでもない。先に進んで大人にもなれないし、
後ろに下がって子どもに戻れない。世界からは、”さっさと大人になる準備をしなさい”
と求められるのに、その一方では、”それはまだ早すぎる”とコンコンと説教される。
大人は、大人のやることを法律で明文化してまで、17歳には固く禁じているのだ。

高校生を拘束してから、手も足も出ないようにギチギチに縛りあげる。そして世界は、
束になって、これでもか、これでもか、とプレッシャーをかけてくる。ここで何かを申し
出た
ところで、それは高校野球の審判のように、何をいっても無駄なのだ。

若者らしく、高校生らしく、青春らしく、清く正しく美しく、太陽光線を浴びてキラキラ
と輝きなさい。ストレスとかプレッシャーは、みんなが必ず経験するものなんだから
健康的に、合法的に、そういうものは発散しなさい。今はとにかく我慢して、目標を
1つにして、三浦雄一郎さんのように、「頑張って、頑張って、頑張って」 一番高い
エベレストのことだけ、あなたの未来を照らす太陽のことだけ、を考えていなさい。
夜になると妖艶になる月のことは、受験が終わってからのお楽しみに、そうしなさい。
今から慌ててそんなことをしたら、勉強なんかできなくなるし、それは、あなたの人生
にとっては大きなマイナスになるし、取り返しのつかない後悔になるから。

ビニール本(12
)へ

高い志を立てれば人は変わる。
志は青春時代だけのものではない。
中年よ大志を抱け!
三浦雄一郎[みうら・ゆういちろう]
(プロスキーヤー、登山家、1932〜)














ビニール本(10)

2013.5.28(火)
05:00〜05
:55/ストレッチ・軽く筋トレ・ゆる体操
05:55〜06:20/入浴、ストレッチ・正座
08:30〜09:30/経絡治療院

光があたれば、そこには黒い影が発生する

右サイドの長い階段を上って行くと、ようやく国鉄新小岩駅のホームへ
たどり着いた。平日の午前7時50分は泣く子も黙る朝のラッシュアワ−。
ただでさえ人が多いのに階段の辺りは特に人口密度が高いので、ここを
避けて左側に数メートル移動する。ここから乗車(階段と階段の中間点)
する利点は、
両国駅で下車したときの下り階段が目の前に位置すること。

この通学ルートは中学1年生の入学式から始まり、すでに5年目に突入
しているから、通学途中で、ボク(高校2年生)が何かを真剣に考えていた
としても、何も考えていなくても(その方が多い)、足が勝手に交互に動作
することにより、身体を学校まで運んでくれる(運んで欲しくないのだが)。

楽しいことなんかない。ただ混んでいるだけの総武線の上り電車。田舎の
トイレ窓にベタッと張り付いているヤモリのように、新小岩駅〜両国駅まで
ドアに張り付く。たかが10分、されど10分。そこには、絵もない 花もない
歌もない 飾る言葉も 洒落もない そんな居酒屋で!いや、お酒もない
(当たり前だけど)そんな電車通学、そんな駅のホームで、あの10秒間の
惨劇が勃発したのだった。

あの朝、新小岩駅からいつものように乗り込んだ。いつもの時間、いつもの
車両から。同じ車両の隣りのドアには彼らが乗車していた。いつものように
彼らは小岩駅と次の市川駅からすでに乗車していた。彼らとは同級生の
窪塚と篤志(ともに仮名)である。

窪塚と篤志は、偏差値60の高校受験を突破して入学してきた外部生だ。

(内部生(中学
入学)240人、外部生(高校入学)120人、高校1年生の
合計360人)

ボクたち内部生にとって、高校から入学してきた外部生は新しく吹き
込んだ風だった。この新しい風に対しては、小さな期待と大きな不安の
両方の気持ちがあった。頭のいい奴が沢山入ってくるから、ボクの序列
(成績)は相当悪くなるだろう、これが大きな不安であり、それはDeNAの
順位のように、まさに予想通りの結果になった。

そして小さな期待とは、どのような個性的な奴(外部生)が入ってくるのか
である。新しい風は、それまでの序列(成績)を大きく変えてしまったが、
学校というところはそれだけが全てではない。序列(成績)に対して、太陽
からの眩しい光があたれば、そこには(地上)黒い影が発生する。
それが、もう1つの序列(不良)である。


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人にはできることもあれば、できないこともある。
得意なものもあれば、どうしても不得意なものもある。
それが一人の人間が持っている光と影なのです。
光にばかり目を向けるのではなく、
影の部分もしっかりと見据えることが大切です。
 
曽野綾子(作家、1931〜)雑誌『PHP』2004年2月号

ビニール本(9)

2013.5.24(木)
05
:20〜05
:55/ストレッチ・軽く筋トレ・ゆる体操
06:00〜06:45/入浴、ストレッチ・正座
08:30〜09:30/経絡治療院

通学の足取りは、リーガルの高額な靴のように、やたらと重かった


35年前のことは本当なのか。シンジラレナイ、アンビリーバブル!
そんなことがあったのか、と首を傾けるようなことが、あの当時には、次から次と
雨後の竹の子のように、ニョッキニョッキと絶え間なく持ち上がってきた。 
僕たちにとって、いろいろなことが、本当にいっぱいあったのだ。本当に。

まず、記憶の整理ダンスのところへ行く、そこで「高校2年生」の引き出しを開けると
”乗車10分間のうちの10秒間の衝撃”は、すぐに目につくところに収納してあった。

わずか10秒間の衝撃が発生したのは、高校2年生のときだった。ボクが通学するとき
の乗車時間は10分間、国鉄(JR)新小岩駅から乗って4つ目の両国駅で下車をする。
(国鉄 総武中央線 新小岩駅・・・平井駅・・・亀戸駅・・・錦糸町駅・・・両国駅)

午前7時50分に新小岩駅へ到着すると、ただそれだけで、
ボクはうんざりしていた。
毎日のことながら、一体どこにこんなに大勢の人間がいたのか、と言いたくなる。
いつものように、カチ・カチ・カチ・カチ・カチ・カチ・・・・・という絶え間ない連続打音が
聴こえてくると、まるで、”ハーメルンの笛吹き男(グリム童話)”のように、足早に
セカセカと歩いていた大群は、改札口で少しだけスピードを落としてから、国鉄の
帽子を被った駅員さんに向かって、パスケースの定期券をサラッ〜〜と見せる。
(横着してサラッと見せると、ちょっと学生さん!と注意される)
カチカチと鳴らし続ける駅員さんの手元に切符を出して、その切符の一部分を
カチッ!という音で切り取ってもらうと、すぐに大群は、もとのスピードに戻していく。

このようにして新小岩駅北口の改札口を通過すると、数メートル歩いたところに階段
があり、ここを下りてから20〜30メートル歩いたら、今度は上りの長〜い階段がある。
この長い階段を昇らないければ、プラットホームにつけない、電車に乗れないのだから
それは仕方ないのだが、だったら、何で下り階段と上り階段があるのだろうか。
ボクの記憶が正しければ、少なくても、平井駅、亀戸駅、錦糸町駅、そして両国駅
には、下ってから上るような無駄な階段(駅の構造)はないはずである。

それが何か問題か、と言われるかもしれないけど、それだけのことが面白くなかった。
高校生なのに青春なのに、朝なのに、朝から、ストレスの容量はすでに一杯だった。
学校に行ったって、先生に期待されていない劣等生だし、ただでさえ、通学の足取りは
リーガルの高額な靴のように、やたらと重いのだ。それに、毎晩のように深夜放送を
聴いていたから、朝は眠くて、ダルくて重くて、ボクは、どうしようもなかったのだ。

あれは憂鬱な梅雨の前だったから、ちょうど今頃の季節だったと思う。
あの日、いつものように重い足取りを引きずるようにして、カチカチの改札口を通過した。
そこからわずか10分後に、朝の眠さを吹き飛ばす、衝撃の10秒間がボクを待っていた。

ビニール本(10)へ


我々の一生にとって永遠なものが存在するとしたら、
我々の若かったころに心に受けた深い衝撃こそ、それである。
テオドール・シュトルム(19世紀ドイツの作家・法律家、1817〜1888)

ビニール本(8)

2013.5.21(火)
05:00〜05
:55/ストレッチ・軽く筋トレ・ゆる体操
05:55〜06:20/入浴、ストレッチ・正座
08:30〜09:30/経絡治療院

授業中の広角打法は、もちろん、”喝(かつ)”である

大きい小さい、細い太い、垂れる上がる、三角丸い、高校生は、それぞれ自分だけ
の瞳を持っている。瞳の形状と勉強ができるか出来ないか、との因果関係はない。
しかし彼らには、共通する眼を持っている。勉強のできる優等生は、眼球の輝き
と透明性、眼力が同質であり、それは僕たちの瞳とは決定的に違っている。

休み時間と昼休みに、高校生の眼球の違いを認識するのは難しい作業である。
しかし、いったん授業が始まれば、その違いは一目瞭然、とても簡単に判明する。
優等生の視線は、たった2つ(種類)しか焦点(視線距離)を合わせていないのだ。
1つは先生(黒板)であり、もう1つは教科書(ノート)である。これ以外に視線を向けたり
他の場所に自分の焦点を合せることはない。たった2つの焦点、それは彼ら(優等生)
の意志だ。 2つだけで3つ目がないのは、無駄だと考えた、彼らの結論である。

ところが、僕たちの視線(視線距離)は2〜3どころではない、全方位に飛んでいく
広角打法である。それは3000本安打の張本選手の現役時代のように。ただし、授業中
の広角打法はもちろん、”喝(かつ)”である。 僕たちの視線は、まず先生の顔と口元を
見ているが、ここから、やたらと落ち着かない。やたらと視線が多方面へ飛んでいく。

先生のネクタイ(センスがない)、黒板の文字(下手くそ、人のこと言えないけど)、
前席の奴の後頭部(ヘアカット)、窓の外を見る(なんとなく)、下向いている奴(居眠り)
優等生の顔(真剣さ)、自分の前髪(引っ張ってみる)、廊下の気配(誰かが歩いた)
ノートにELTON・JOHN(書いてみる)、あわてて教科書をめくる(パシャッの音で気付く)
うしろを振り返る(ヤル気ない奴をみて安心)、時計を見る(あと30分かよ)、耳の穴
(人さし指を入れたり出したり)、先生のくち癖=要するに(だから要するに何だよ)
先生が自分を見たら(すぐに視線を外す、下を向く)。

こうやって視線を動かすたびに、その都度、そこにあるものに対して思考が飛んで行く
のだから、その結果として、授業から意識が遠く離れることになる。この状態について、
先生の言葉を借りたら、お前たちは集中していナイ、やる気がナイ、危機感がナイ、
分かってナイ、NAI-NAI-NAI 恋じゃない(NAI-NAI16 シブがき隊)、
NAI-NAI-NAI 勉強じゃない、つまりボクは”はなまる”、じゃナイ、”はなくそ”なんだ。


視線が下を向くとき、思考も内面や過去に向かっている。
視線を真正面からやや上方に向ければ、人は自然に、
近未来の自分や社会に思いを馳(は)せやすくなる。

香山リカ(精神科医・著述家、1960〜)『貧乏クジ世代』

ビニール本(7)

2013.5.20(月)
05
:20〜05
:55/ストレッチ・軽く筋トレ・ゆる体操
06:00〜06:45/入浴、ストレッチ・正座
08:30〜09:30/経絡治療院

空想と現実の世界を彷徨(さまよ)っているだけである

学年360人中の280番、高校2年生時の序列(成績)。この序列は惜しいとか、
まだチャンスがあるとか、可能性を含ませたジャッジではなく、誰が見たって、どんな
ヘボ審判だって、遠くのほうから見たって、それは完全なアウト。アンド、ゲームセツト。

ナナナ・なんでだろう、何でこうなったんだろうか、なぜ試合終了なのか。
考えなくてはいけない。その経緯と原因について、しっかりと丁寧に検証する。
親から子への伝達として、あの頃の僕たちと同年齢の子どもを待つ
親として、
経験を教訓に変換して開示するために、自分のために、そして未来のために。

もともと頭は悪くはない(良くはない)と思う。ただものごとに(特に勉強)集中すること
ができなかった。何か(特に勉強)をやり始めても、最後までやり通すことができない。
その途中で(早い段階)プツッと集中力が切れてしまう。とくに高校生になってからは、
砂時計の砂が上から下に落ちて行くように、集中力が目に見えて減少していった。

それは運転中にラジオから流れてきた、”ブルーライトヨコハマ”と似ている。
最初は「これって懐かしい!」と嬉しくなって口ずさんでいるのに、すぐに違うこと、
歌とは関係ないことを、あれやこれやとを考えている。そしてボクは、授業が始まると
いつの間にか、勉強とは関係のない、まったく違うことを考え始めている。

土曜日の学校帰りに
新宿のタカキュウと三峰、日曜日は原宿の表参道へ。
17歳、ファッション、そして繁華街へ。新しい出会いに
は刺激と面倒がある。
10円玉を何枚か持って公衆電話へ、面倒だけど、そろそろ電話しないと・・・・・。
アグネスラム・異種格闘技戦・セイヤング・潰した学生鞄・ピンクフロイドの狂気
女子高の文化祭・ディスコのチークタイム・バギーパンツ・手編みのセーター

チョークの白い字を、ノートに書き写している振りをしながら、その視線は
黒板とノートを通り超して、テレビ画面からの映像、そして音楽を聴いている。


壁際に寝返りうって〜背中で聞いているぅ〜やっぱりお前は〜(白のスーツ)
あの人は〜悪魔〜わたしを〜とりこにするっ うッ!あの人は〜(黒のガードル)
あ〜ァ、授業なんか!・・・ジャッ・ジャッ・ジャッー(スモーク・オン・ザ・ウォター)
あ〜ァ、落ちていくんだ・・・ジャジャジャ・ジャーン(ベートーベンの交響曲 運命)

大切な授業中に、大切ではないことを考えている。
いや考えているのではなく、たんに意識がフワフワしているだけだ。
あっちに行ったり、こっちに行ったり、どこかへ飛んで行ったり、
浮かんだり沈んだり、消えたり発生したり、当てもなく行先もなく、
ただ漠然と、想像と予想、空想と現実の世界を彷徨(さまよ)っているだけだ。

ビニール本(8)へ

子供の教育について最悪の間違いは、親や教師が、
誤った道にさまよっている子供らに向かって悪い結末を
予言してやることである。
アルフレッド・アドラー(オーストリア生まれの心理学者・医師、1870〜1937)

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