相席になった彼女がいったい誰なのか。それが分かった瞬間、ボクは
バカみたいに緊張してしまった。それは思考ではなく血の騒ぎだった。
身体中に流れている血液のすべてに非常事態宣言が発令され、首から
上に一気に血液が駆け上がってきた。たしかにそう感じたのだ。
ボクは自分の体が心配になったので、高い所にいるプールの監視員の
視線のように、注意ぶかく自分の両手を見つめてから、結んで開いてを
連続して3回やってみたら、幼児がするようにちゃんとした基本通りの
グーパーが大体できていたので、その心配は気のせいだと分かった。
ボクは大丈夫なのだ。たぶん。ボクは少しだけ安心した。
そのような一連の精神的な動揺に気が付いたのか、それとも、変な人
がいると思って警戒したのか、彼女はボクに優しく微笑みかけてきた。
その微笑みにはアロンアルファのような即効性があった。その効果は
イチローが愛飲している最高級ユンケルのように抜群の効き目だった。
それまでの岩石のようにカチンカチンに硬くなっていたボクの緊張感は、
押しては引く波のようにす〜と引っ張られるように、その一部は減少して
柔らかく溶解していった。そうして緊張感が消失したその隙間に、すぐに
入れ替わるようにして、粗雑な性格の引っ越し屋さんの振る舞いのように
新しい感情がドカドカと侵入してきて、その空いたスペースをあっと言う間
に埋めてしまったのである。
その様子は総武中央線の上りの満員電車の車内を見ているようだった。
10人掛けの長椅子に座っていた10人の内の3人が席を立ったと同時に、
そのぽっかりと空いたばかりの3つの座席に向かって、待ち構えていた
オバちゃん3人組が、その小さくないお尻を押し込むように座り込んできた。
そのお尻は海外のハロウィンのときに子ども達が頭にかぶる過度に発達
した不細工なカボチャのように見えた。 その3つの座席のひとつ1つには、
おそ松くんの兄弟のようにそれぞれ独立した立派な名前がついていた。
以前は緊張感という同名だったが、今回は、困惑、好奇心、混沌だった。
このようにボクは不安定だったけれど相席の彼女の美しさは安定していた。
その彼女はモナリザのように微笑みながら、「こんにちは」と優しく言った。
その声はテレビ等で観ていた、いままで聞いていた、そのままの声だった。
もちろん、ボクもすぐに「こんにちは」と答えた。しかし、ボクの声はいつもの
自分の耳で聞いていたボクの声ではなかった。それは不安定な声だった。
とても頼りなくて情けない声だった。自分の声をタッパーに入れて(保冷状態)
8日間冷蔵庫の奥の方で保管していたのを忘れて、「しまった!」と気付いて
慌てて冷蔵庫から取り出してきた密封容器を焦りながらガバッと開けたときに
そこから聞こえてくる、鮮度の喪失した、茫然とした、あやふやな声だった。
自分で発声した自分ではないような声を聞いたら、ボクは情けなくなってきた。
これが真実だと実感したのだ。情けない自分の本性を目の当たりにしたのだ。
少し余裕があるときならそれなりに取り繕うことができるけれど、自分の本質的
なものは茫然としたあやふやな声のように酷く不安定なものだった。昔からだ。
今さらこんなことを言うのは何だけど最初から「おかしい」という気持ちはあった。
相席の彼女のことをボクは少しだけ疑っていたのだ。こんなところに有名な彼女
がいるはずがない。ここに来るはずがない。その彼女はテレビ、CMで観ていた
有名女性ではなく、まったく違うひとではないか。ただ似ているとか、ただ綺麗な
女性だとか。あるいは、そっくりさんとか。つまり、本物ではなく真っ赤な偽物では
ないのか。そういう気持ちもあったのだ。
しかし、彼女の笑顔と、優しい「こんにちは」は正真正銘の本物だった。
むしろ、ボクの発した「こんにちは」のほうが安っぽい偽物のようだった。
ボクは、出しっ放しのシャツをハンガーに掛けるようにバラバラになりそうだった
自分の気持ちを拾い集めてきて、自分自身のクローゼットに収納してみた。
それはボクが彼女に向き合うための準備であり、その為の小さな覚悟であった。
(生き方に)「ほんもの」なんてものはない。
絶対的な生き方を求め、
それに自分を賭けるってことがあるだけなんだな。
岡本太郎(芸術家、1911〜1996)『強く生きる言葉』

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