KAZUの完全復活を目指して

平成23年1月1日元旦の午前1時 年越しJOGの途中で転倒して大怪我をした。 大腿部と手首の骨折〜救急車の搬送〜2回の入院と手術を経て2月9日に退院。 そして退院後のリハビリ通院は79回をもって、平成23年6月29日に終了した。 さぁこれから、ここから、どこまで出来るのか、本当に復活(完全)出来るのか? 本気でヤルのか、情熱を注げるのか、そして過去を超えられるのか? 質問と疑問に対して、正々堂々と、決して逃げずに、答えを出してみよう。 こういう人生を、こういう生き方を、思い切り楽しんでみよう。 KAZUさんよ、タイトルに負けるなよ!

2013年10月

冷静さを奪うもの(STAR・16)

働き者が成功したのは運がよかったのだ、と怠け者は言う

「ナ・マ・ケ・モ・ノ(怠け者)」と答えたボクを、彼女はニヤリと笑った。
「あなたは間違えている、それと少し、シツレイ(失礼)だと思うわ」と彼女は言った。
「えっ失礼って?Aさんに、それとも自分自身に対して?」驚きながらボクは尋ねた。

「あなたではないし、わたしでもない、失礼なのは動物のナマケモノに対して。
あのねぇ、ナマケモノは名前がナマケモノだけど、それは動きの遅いナマケモノ
を人間が勝手につけたネーミングであって、ナマケモノ、イコール、怠け者では
ないの。何を言っているのか意味分かったぁ?(ボクが肯くと、彼女は微笑む)
もちろん、ナマケモノの中には働き者もいるし、普通もいるし、怠け者もいるわ。
でもそれは、何もナマケモノだけに限ったことではないでしょう」と彼女は言った。

「うん、確かにそうだ。ナマケモノのことを知らないのに失礼な言い方だった・・・」
ボクは素直にそう言った。おやつを食べすぎて叱られた子どもの気分だった。
ところがまだ、彼女の話しは終わっていなかった。
「ねぇ、そうでしょう!それにあなたは、怠け者ではないでしょう」
「もちろんボクはナマケモノではない、人間だ!」と即答すると彼女はきっと睨んだ。
「そう、あなたは確かに人間ね(笑)・・・ねぇ〜お願いだから茶化さないでくれる!」
ボクは「ごめん」と言った。美しい女性教師に叱られた子どものような気持ちだった。

「そもそもなんだけどねぇ、本当に怠け者のひとは自分のことを怠け者とは
決して言わないわ。それは何故だか分かる?(ボクは首を横に振った)
怠け者は誰かのせいにしたり、何かのせいにして自分を責めようとはしない。
自分が怠け者だとは考えないようにしている。そうは考えたくないのね。
もし自分のことを本当に怠け者だと考えたら、それは反省することになるし、
本当に反省したとしたら、怠け者は怠け者を卒業することになる、でしょ?」

笑顔を絶やすことのない彼女の熱弁だった。ボクは少し圧倒されていた。
手数の多い相手の連打に、ガードを固めている消極的なボクサーだった。
なかなか反撃ができない。このままではいけないと思った。
ボクは左ジャブを繰り出すように、彼女に言葉を投げかけてみた。

「うん、なるほど。怠け者は反省しない、ということなんだね。
そう言えば、たしかイギリスの諺(ことわざ)に、こういうのがあった。
”働き者が成功したのは運がよかったのだ、と怠け者は言う”」

「ねぇ、その言葉をもう1回言ってくれる?」と言いながら、彼女は椅子に
置いてあったベージュ色のショルダーバッグに手を伸ばした。そこから、
手のひらくらいの小さな手帳と黒いボールペンを素早く取り出した。
「わたしってねぇ、メモ魔なの。すぐに忘れちゃうから、こうやって気づいた
ときにすぐに書いておくの。ちょっだけ待っててね。はたらきものが・・・・・」
と復唱しながら手帳に書き込んでいく、その瞳は真剣そのものだった。

彼女が手帳に書き込んでいる時間は、思いのほか長く感じた。
少し書いてはぺんが止まり、何かを考えてから、また書き始めていた。
ボクの話した言葉だけではなく、他にも何かを考えながら書き込んでいた。
その様子をじっ〜と見ているのは、何か気が引けたのでボクは時計を見た。
長いほうの針があと5分経過すると、午後1時になるところだった。

初秋のオープンカフェに、少し強めの陽射しが降り注いでいた。
狼の遠吠えのように、都会の雑踏のざわめきが遠くの方から聞こえた。
環七を走っている大型トラックの圧縮解放ブレーキを踏み込んだプシュッ!
プシュッ!という連続音が地響きのように聞こえた。誰かの話し声も聞こえた。

7メートルくらい先のテーブルにいる40歳前後の女性二人が話をしていた。
一人はやたらと細くて長い煙草を誇らしげに吸っていた。「わたしは私なりに
精一杯やっているっていうのに、あの人たちはどうして分かってくれないの!」
と憤慨しているように見受けられた。もう一人は、日曜日の竹下通りをぶらぶら
と歩いている女子高生が持っているオレンジ色のきらきらしたショルダーバック
をテーブルの上に投げ出していた。しかし、彼女達がきらきらとした女子高生で
あったのはかなり昔のことだった。その二人のうちのどちらかは、キンキンと
する声の持ち主だった。二日酔いの朝には、絶対に耳にしたくない声質だった。

紫煙を漂わせながら、キンキン声を発しながら、二人の女性がこちらを食い入る
ようにじっ〜と見ていた。そこに遠慮とか躊躇は、まったく存在していなかった。
ボクの視線と彼女たちの視線が、まともにぶつかった。完全な正面衝突だった。
こちらを見ながら、こちらに関することを、彼女たちが話題にしていたようだった。
ある種の女性達が、何よりも好んでいる情報に出くわして、それに飛びついて、
夢中になって興奮している、そういう雰囲気だった。ボクは不快感を感じた。
走っているときに、靴の中に小石が入ってきたみたいだった。

ボクは思っていた、誰かに関心を持たれるような魅力的な人間になりたいと。
しかし実際に、こうやって見ず知らずの人に、じろじろ見られて、こそこそと話を
されることは、それは想像以上に耐え難い苦痛なんだと、ボクは痛感した。

ところが彼女は、そんなことは何も気にしていないように、見受けられた。
手帳に書き込んでいた作業が終わると、彼女は満足そうな表情を浮かべながら
ボールペンのキャップをカチッとしまった。そしてボクを見た彼女は・・・・・・・。

笑顔は、人の心をおだやかにする。なごませる。幸福な気持ちにする。
これは、立派に人に喜びを与える行為であり、
また、もっとも手軽にできる行為でもある。

植西聰(心理カウンセラー)『スッと気持ちが楽になる言葉』

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冷静さを奪うもの(STSR・15)

週刊誌の商業広告の活字を流し読みする程度のことだ

彼女は笑った。あっけらかんとした、見ていて楽しくなる笑い方だ。
ヘイ・ジュードのように、終わりそうでなかなか終わらなかった。
笑い終わると、「理想的な・・・・・」と言ってはまた、プッ!と吹き出した。
いちいち誰かに教えてもらう必要のない、赤ちゃんのように無防備な
笑い方だ。それは、誰もが自然に惹きつけられる種類の笑顔だった。

ひとしきり笑った後に変化がおこった。目の前にあるテーブルだった。
銀色のピカピカした丸いテーブル上にあったものが、ぱっと消えた。
キレイさっぱり、なんの跡形もなかった。まさに霧が晴れたかのように。
もちろん手品じゃないから、スタバで注文した飲料(タンブラー)が消えた
りしない。それにそんな飲みかけの飲料なんか、だれも持って行かない。
彼女のもの(飲料)で、彼女のファンなら、という例外は別としてだが。

彼女とボクの間のテーブル上から消えたものは、ある種の空気だった。
それは酸素濃度とか、重力変化などの科学的、物理的なものではなく、
ひとの感情の塊の総称としての空気であり、お見合い、合コンのように、
初対面には必ずついてくる緊張・遠慮・ためらい・様子見・探り合い等だ。
たしかにそれまでは、どんよりと垂れこんだ雨雲のような重厚な空気が
テーブルの上にあった。ところが彼女が笑っていたら、そこから自然発生
した気圧が、その重苦しい空気をさ〜っと押し流したのだった。

天候が回復したように、笑い終わった後はスッキリした気分に包まれた。
柔らかい秋の陽射しと繊細な風が優しくて、とても心地よく感じた。
呼吸が安定してきた彼女が、先ほどまでとは、また違った瞳を輝かせた。
クイーンズ伊勢丹(白金高輪店)で試食品のローストビーフに手を伸ばした
貴婦人のように、謙虚さと好奇心を兼ね合わせたキラキラした瞳だった。
久し振りに再会した同級生に尋ねるような感じで、彼女はボクに言った。

「ねぇ〜ねぇ〜、それじゃ〜私の方から質問させてもらうわね!
  あのねぇ、あなたは何を、どういう役を演じているのかしら?」

この言葉を聞いたとき、ボクは戸惑いと何かしらの違和感を覚えた。
どうして、彼女はボクのことを尋ねるのか、ボクの何が知りたいのか。
彼女とボクはまったく違う世界の人間だ。仕事も違うし、年齢も全然違う。
知名度や年収は天文学的に桁違いだ。目と耳が2つ、鼻と口が1つある
ことを除外したら、他に何の共通点や関連性があるというのか。ないのだ。
そこには何もないだ。ちょっぴりさみしくて、振りかえっても、そこにはただ
風が吹いているだけ、はしだのりひことシューベルツ、の風なのだ。

ボクが彼女に関心があったとしても、それはほんの些細なものだ。
それは太いものではなく、見えるか見えないかの細い線である。まるで
UNIの極細ボールペンのように(彼女はUNIのボールペンを持っていた)。
テレビで観たとか、新聞に出ている週刊誌の商業広告の活字を流し読み
する程度のことだ。芸能人の誰と誰がくっつこうが、離れようが、そういう
ことは、ボクの人生とは関係がないことだ。もちろん、芸能人のほうだって
ボクが不動産の仕事をしようが、マラソン復活を目指そうが、ギターで
ボヘミアン・ラプソディを弾こうと、レイモンド・チャンドラーを読んでいようと
マルエツで150円の焼き芋を買おうと、水曜日に白髪を5本抜いていようと
ゴジラから逃げ回る夢を見ようとも、そんなことに何の関心もないのだ。
つまりボクには、質問者の意図するところ、その動機が分からなかった。

これは単なる会話上の話題とか、成り行きとか、そういう類のものだろうか。
この時点では、彼女の意図が全く分からなかった(後で判明するのだが)。
ただ、こういうのは悪くないと思った。美しい女性から突然声を掛けられて
話して笑って、会話上とはいえ、こちらに関心を持たれる。それが悪いはず
がなかった。ボクに限らず誰にでも言えることだろうが、自分に関心を持た
れて嫌な気はしないし、反対に避けられて無視されて嬉しいはずがないのだ。

ことの真実を知らないボクは嬉しい気分になっていた。そして彼女に言った。

「そうだねぇ、必ずしも理想的ではないけど、ボクは不動産屋を演じている。
お父さんと、常識的な人間と、正義感のある親爺を演じている。
それから・・・そうだぁ〜、あっそうそう、理想的な動物も演じているんだ!」

アイスコーヒーにガムシロを2つ入れたみたいな甘い声で、彼女が言った。
「ねぇ〜、その理想的な動物って、何なのぉ〜?」

「ナ・マ・ケ・モ・ノ(怠け者)!」と間髪入れずにボクが答えた。
ボクを見ながら、彼女はニヤリと笑った。
良いアイデアが思いついたときに女性が魅せる、余裕の笑みだった。

毎朝床から起きたら、たとえ好きだろうと嫌いだろうと、
何か一つやるべき仕事があることを神に感謝しよう。
何が何でも働き、何が何でもベストを尽くせば、やがては節制、
自制心、勤勉、強固な意志、満足感といった、怠け者には想像
もつかないよな、もろもろの美徳が備わるようになる。
チャールズ・キングズリ(イギリスの聖職者・作家、1819〜1875)

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冷静さを奪うもの(STAR・14)

バカヤロー、演じているのは人間だけだと思っているのか!

深まる秋の夜空にゆったりと漂っているお月様のように、彼女の顔には
しっとりとした笑みが浮かんでいた。ただ見ているだけで心に潤いを与える
浸透力と保湿力のある笑顔だ。余裕があるとき、その余裕を楽しんでいる
ときに美しい女性が男性に対して魅せる取って置きの特別な表情である。
観客席より高いステージを歩くスーパーモデルのように、獲得した力の差を
見せつけるドライなものではなく、地方のロケ地に集まってきた地元の子ども
達の目線に合わせるために、そっと腰をかがめた女優さんの笑顔だった。

視線を落とした彼女は、自分の指をそるようにして爪の光沢を見ていた。
あるいは、ただ見ているフリをしていた。それが始まりの合図だった。
白熱する会話と予想外の展開への序曲、そのイントロが始まったのだ。
赤いレーザー光線のように、彼女の視線がボクに真っ直ぐに向かってきた。

「あなたはお仕事は?」と訊かれて、「ボクは不動産家です」と簡潔に答えた。
あ・な・た、というコトバが、そよ風のようにボクの身体を少し揺さぶった。 

「ふうん、不動産屋さんなんだ、そうなんだぁ・・・・・」、彼女は小さくうなずいた。
とても簡単な足し算ができた小学生が、当然だと言うような表情だった。
少し考えてから、彼女は堰(せき)を切ったように話しはじめた。
まるで東進ハイスクールのカリスマ講師みたいに、ところどころの重要な部分
に絶妙な強弱をつけながら、彼女はとても分かりやすく話し出した。

あのねぇ、これは私が尊敬する大先輩から云われたことなんだけどね。
みんな誰でも、すべてのひとは役者であり、すべての人は何かを演じている。
たとえば、脚本家は脚本家を演じているし、演出家は演出家を演じる。
映画監督は映画監督を演じて、俳優は俳優として、その役を演じている。
ひとには、それぞれの演じるべき役があり、人はそれぞれの役を演じている。
そしてこれはね、けっして人間だけじゃなくて、すべてが何かを演じているの。
あらゆるもののすべて、なにもかも、全部が全部、ということ。季節は季節を
演じる、寒い冬は北風と枯葉、冷たい雨とレインコート、それと温かいストーブ、
熱いスープと曇った窓を演じるの。冬の雪山のロケではね、まず気象条件に、
極寒という重要な役柄を演じてもらわなくてはいけない。そういう現場では、
暑いとか寒いとか、そういうのはダメなんだって。その大先輩はこう言ったの。
「バカヤロー、演じているのは人間だけだと思っているのか!」ってね。

うっとりしながらも、ボクは彼女の話をちゃんと聞いたし、ちゃんと理解していた。
しかしそれにしても、美しい女性が真剣に話をしたら、どうしてこんなに説得力を
感じてしまうのだろうか。たとえば、アインシュタイン博士の相対性理論を彼女が
説明してくれたら、ケインズ経済学、マルクス・レーニン主義を解説してくれたら、
それはきっと、掛け算の九九のように分かり易いのではないか。あるいは、実際
にはちっとも分かっていないくせに「ねぇ〜分かったのぉ?」と彼女に尋ねられたら
「もちろん、よく分かったよ」と思わず言ってしまうかもしれない。それとも、本当は
分かっているのに「ゴメン、ちょっと分からないんだ。もう一度はじめから説明して
くれないか」と話すかもしれない。「もぅ〜まったくぅ〜しょうがないなぁ〜あのねぇ〜
よ〜く聞いてねぇ!」と言わせたいがために。何を考えているんだか、やれやれ。
そして、彼女がボクにそうしたように、彼女の瞳を真っ直ぐ見ながらボクは言った。

うん、なるほど。演じるのは人間だけじゃないって、ことだよね。
秋は秋を演じているし、鳩は鳩を演じている。
だからAさんは、Aさんという女優を演じている、そうだよね?
(Aさんは彼女の名前。しかし、Aが本名か、芸名なのか、このときは知らなかった)

うっふっふっ、彼女は小さく笑った。そして、鳩をちらっと見てからボクに言った。
「それじゃ〜この鳩の演じ方はどうかしら?」

ボクも鳩を見てから、彼女にこう言った。
「見事だし、完璧ですよ。文句の1つもないし、2つもない。
  鳩は正確に、忠実に、鳩を演じています。
  カラスでもなく、すずめでもなく、基本的な、理想的な鳩を演じていますよ」

うっふっふっ〜妖精のように彼女は笑った。つられてボクも少し笑った。
彼女は「理想的なハトってなに?うっふっふっ」自分で言って自分で笑い出した。

「そうです、理想的な鳩はカラスを演じないし、カラスの真似なんか絶対にしない。
  理想的な鳩は、理想的な鳩を演じるんです」とボクが真面目に話したら、
ぷっっ!と吹き出した後に、はっはっ〜お腹を抱えるようにして彼女は笑い続けた。
テレビで微笑んでいるときの彼女とは、まったく違った笑い方だった。
なにかのタガが外れたような笑い方だった。彼女とボクは、ふたりで笑い続けた。
あまりの笑い方に驚いたのか、近くにいた、あの鳩がパタパタパタと飛んで行った。
「理想的な鳩の飛びかたです」とボクが言ったら、彼女はさらに笑い続けた。

ケタケタと大笑しながらも、沸き起こってくる不思議な気持ちをボクは自覚していた。
この状況はいったい何だろうか。どうして女優さんと一緒に笑っているんだろうか。
ひょっとして、これってドッキリだとか? 
まさかこのときに、この後に待ち構えていた事態を誰が想像できただろうか・・・・。

役者に限らず、仕事って自分探しじゃないですか、結局は。
だから、役者ってものが特別な職業として見られすぎることに対して、
なんか反発は覚えるなあ。
役者じゃなくたって演技はしているわけだから、
役者という職業は特別でもなんでもないわけですよ。
柄本明(俳優、コメディアン、1948〜)

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冷静さを奪うもの(STAR・13)

「ねぇねぇ〜そのホンモノ(本物)ですかって、それは一体どういう意味かしら?
わたしは本物か、わたしが偽物なのか、貴方はそういうことが聞きたいのぉ?」


質問ではなかった。これは抗議だった。そう、彼女は怒っていたのだ。
女性に怒られると男性はびびる。特に美しい女性に怒られた男性はそう
ではない女性に怒られたときの20〜25倍はシュンと萎縮してしまうのだ。
うるさいっ!と叱られて沈黙するアマガエルのように。たぶん大方の男性
はそうだと思う。少なくてもボクはそうなのだ。ど根性なしガエルなのだ。

1つ補足しておきたい。いや、補足ではなく釈明と表現するべきだ。
なぜなら、美しいとか、そうではないとか、女性の容姿を面白おかしく語る
男が、もっとも女性に嫌われるのだ。ただでさえ不人気なのに、このような
ブログでこれ以上の不評を買うような馬鹿な真似は避けたいのである。

(美しい女性というのは?)
なにも目鼻立ちのバランスの問題、容姿だけを指しているわけではない。
もちろん年齢のことでもない。一例としてあげると、数年前にこういうことが
実際にあった。ある女性にガツンと怒られて、ビシッと叱られてボクは一発
でシュンとなった。その彼女は74歳だった。趣味は散歩、書道、英会話と
海外旅行である。いつも姿勢がよく、いつも仕立てのいい上質で上品な
ジャケットを着ていた。ときにはスカーフを巻いていた。高島屋とか三越、
伊勢丹などで買い物をしていた。香水もつけていた。彼女はお洒落なのだ。
もちろん、彼女の生活スタイルは経済的余裕から起因しているものだが、
それは彼女自身の努力によって獲得したものである。成り上がりであるが、
成金や拝金ではない。質素ではないが、贅沢ではない。上品そのものだ。

彼女の話し方はじつに優しくて丁寧でありながら、内面的な奥行きと芯の
強さを感じさせた。彼女の優しさと強さとは彼女の生き方から発生したものだ。
とどのつまり、美しさの継続とは自己管理の強さである。ボクが表現している
美しい女性というのは、自己管理によって美しさを継続している優しくて強い
女性のことである。こういう女性に叱られるのは、自分の至らなさを指摘された
ことなのだ。つまり、美しい女性とは内面的な美しさがあるのだ。だから美しい
女性に怒られると男はびびるのだ。自分がダメなことを自覚させられるのだ。
男は情けないのだ。フーテンの寅さんの言う通りである。 男はつらいよ!
(美しい女性の説明、これでおわり)

彼女の美しさは、寝台特急ななつぼしin九州のようにピカピカと輝いていた。
このときにボクが初めて理解できたことは、カックラキンとは打って変わって、
真剣な表情で唄っていた野口五郎だった。美しすぎて〜君(彼女)が怖い〜
という本当の意味が分かったのだ。いや、それどころではなかった。
目の前にいる美しい女性が怒っている。さて、ボクはどうしたら良いのか。

ちょうどそのときだった。突然パタパタパタという音が遠くのほうからこちらに
向かって近づいてきた。それは3羽の鳩だった。鳩はボクたちのテーブルの
近くに風の音と共にふわっと着地した。いつもながらの芸術的な着地だった。
パラシュート、パラグライダーのようにゆったりと余暇を満喫する軟弱なもの
はなく、自然界の弱肉強食を生き抜く術を日々磨いてきた硬派な着地だった。

見たところ、ごく普通の鳩だった。金の卵を産むようには見えなかった。
とくに綺麗ではなく、特別に汚くもない。どこの公園にでもいる鳩に見えたが、
どこの公園にも必ず鳩がいる訳ではない。ただ、そう見えたと言うだけだ。
鳩は首を前後させながら曲線的に歩いていた。何かを探しているようだった。
または、怒っているようにも見えたし、何かを言いたいようにも見受けられた。
世界の平和について、考えているのかも知れない。
「鳩に餌を与えないでください」、という看板に意見があるのかもしれない。

鳩の目が少し赤かったのは寝不足かもしれない。もともと赤いかもしれない。
兄弟喧嘩をしたとか、あるいは白鳩に失恋して昨夜は泣いたのかもしれない。
しかし、どちらにしてもそういうことはカラスと同じように、鳩の勝手なんだから、
これ以上の推測するのをボクは止めることにした。それに申し訳ないけれど
鳩の動きをじっと観察したからと言って、それが何かの役に立ったり、心がとき
めくような楽しい発見があるとは、そのときのボクには思えなかった。

しかし、こういうところ(実利主義的)がダメだと、すぐに思い知らされたのだ。
なぜなら、その鳩の様子をじっ〜と見ていた彼女は妖精みたいに「ふっふっ」と
小さな笑い声をあげたのである。妖精か天使か、そのように聴こえたのである。

しかし、それはまさに絶妙なタイミングだった。彼女の静かな怒りをそっと鎮める
ために鳩がここに飛んできたかのようだった。少なくてもその鳩はボクなんかより、
よっぽど優秀だった。余計なおしゃべりをしなくても彼女を一瞬で和ませたのだ。
ボクは自分の考え方を改める必要があった。鳩は素晴らしい、平和の象徴だと。
そういえば平和橋(葛飾区)には鳩の像があるのだ。ハトサブレーは鶴岡八幡宮
の銘菓である。東京オリンピック開会式の鳩の飛び立った雄姿は感動的だった。
それに鳩は安くないのだ。銀座鳩居堂前は日本一土地が高いのである。
まえは、う〜み〜、うしろ〜は〜、伊東に行くならハ・ト・ヤ、電話はヨイフロ。

彼女の機嫌がもっともっと良くなるように、もう少し鳩を見ていて欲しかったが、
視線をボクの方に戻してしまった。そしてまた、キリッとした顔に戻ったのである。
そのときに、”ホウホウホウ”という鳩の鳴き声が聞こえてきた。
”ホウホウホウ”、その鳴き方、その鳴き声がボクの心に響いてきたのだ。
「ファイト〜我慢だ〜粘れ〜」まるで長距離ランナーを応援しているような鳩の
エールを受けたボクは、彼女の美しさに気後れしないようにして、こう言ったのだ。

「たしかに本物という言い方は不適切でしたので、それは取り消します。
 では、あらためてお聞きしますけど
 あなたのお仕事は役者さん、女優さんですか?」

彼女は神秘的な美しい笑顔を浮かべた。男には決して出来ない笑顔だった。
いや、普通の女性には、こんな魅力的な笑顔は不可能だ。
ババ抜きをしていて、ジョーカーを引いた瞬間のジュリア・ロバーツのようだった。
うっとりする微笑みを浮かべながら、彼女は驚くべきことを言い出したのだ・・・・・。

役者は自分の体を利用して、
自分でない人間とその人生を生きるわけだから、
それだけ強烈な想像力がなくちゃ始まらないし、
人間を見るのが好きで好きで仕方がないくらい、
自分を含めた人間への興味、好奇心がなくちゃあ、ねえ。
北林谷栄(女優・声優、1911〜)

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本当にサブスリーしたいのか?

何かを手に入れるということは同時に何かを失うことでもある

馬鹿の1つ覚えみたいに、いつも同じことばかりをボクは考えていた。
本当にサブスリーがしたいのか? もちろんだ!
本当にサブスリーが出来るのか?  わからない!
サブスリーの練習ができるのか? わからない!
サブスリー練習を実行するのか? もちろんだ!
本当にサブスリーがしたいのか?  もちろんだ!

毎日が自問自答の日々だった。あれは4年前のこと、ボクは49歳だった。
サブスリーのことばかり考えていたボクは、スチームサウナに入っている
みたいに、いつも喉の奥の方がカラカラに渇いていた。
”ぱぱす”でまとめ買いをしたアミノバリューを飲んでも精神的な枯渇が潤う
ことはなかった。自分としてはサブスリーの階段を1段づつ昇って行くつもり
だったが、実感としては、ぐるぐる回っているらせん階段を昇っているように
感じたし、昇っているようで降りているのではないかとも考えたのであった。

あるときには犯人を追いかけている正義感の溢れた刑事さんのように、
またあるときは、警察に追われている犯罪者のようにボクは焦っていた。
サブスリーのことをどんなに考えたところで、ボクの求めている回答が得ら
れることはなかった。たっぷりの想像と予想を積み込んだ電車をどこまで
走らせても、どこまで先まで行ったとしたも、どこにも辿り着けないことは、
自分で分かっていた。何でも実際にやってみなくては分からないのだから。

何かを手に入れるということは、同時に何かを失うことでもある。
欲しいものを欲しいだけ手にすることは、どこの誰にも絶対に出来ない。
サブスリーの為には、苦しい練習時間を取得(選択)することで、それは
同時にあたり前の日常時間を喪失することでもあるのだ。
サブスリーの練習にリターン(成功)を求めるのなら、同時にリスク(失敗)
を受け入れる覚悟が必要だったのである。

リターンとリスクは、つねに別々の物であり、いつでも同じ物である。
たとえばあるポイントを超えてしまうと、コインを上空に投げた時のように
結果としての成功と失敗は表裏一体になる。ぺらぺらの紙一重なのだ。
美味しいアボカドだけを選別するように、確実な成功だけを求めるのなら、
小銭だけで買えるダイソーなどで小物だけを購入すれば良いのだろう。
ボクの求めたサブスリーは大金を叩いても買うことができない代物だった。
あのとき、49歳のボクはそう考えたのである。

本当に欲しいものは何なのか。24時間365日、ボクは自問自答していた。
完走したいのか、自己ベストか、3時間10分なのか、サブスリーが欲しいのか。
いつものように、いつもの覚悟を、いつもの49歳の身体に叩き込んでいた。
ボクが本当に欲しいものはサブスリーだけなんだ。他には何も欲しくないんだ。
そのために、そのためなら、サブスリーの為に何かを失ったとして、なにかを
犠牲にしたとしても、それはそれで仕方がないじゃないかと思ったのだ。
それに何かを失うということは、同時に何かを手に入れることでもある。
目標に向かってひたむきに走ったことに意味がない、なんてことは絶対にない。
たとえサブスリーができなかったとしてもだ。

フルマラソンというのは、ある種の仕組みがある。まず先に対価を支払ってから
商品は後で受け取る(つもり)というシステムだ。しかし、支払に問題(代金不足)
があれば、お目当ての商品は未納となる。支払った対価としての正当な商品を
受け取れる場合もあるけれど、支払ったのにまったく受け取れないこともある。
それでも、その後に上手くいけば半年後に遅れて商品を受領するかも知れない。
あるいは、永遠にその手にできないかもしれない。これが、このシステムなのだ。
どのくらいの対価を支払うかは、どれだけの商品を希望するのか、個人の意志
と選択から決断すべきであり、これが根幹的な資本主義のシステムである。
少しばかりの商品を求めるのなら、少しばかりの対価を支払えばいいのだ。

ただ指をくわえて見ていたって、サブスリーの方から近づいてくることはない。
そうだとしたら、ボクからサブスリーに向かっていくしか選択肢がなかった。
選択肢がなければ、ボクは迷わないのである。
そのための練習は、とてもシンプルに、至極単純に考えれば良かった。
サブスリーより速い練習をしないこと(危険)。
サブスリーより遅い練習をしないこと(未達)。
ただ、サブスリーの練習だけをすれば良かったのである。
なぜなら、ボクが本当に欲しいのはサブスリーだけなんだから。
身の丈知らずに欲張ったら、サブスリーは出来ない。
弱気になったり、控えめになったら、サブスリーは出来ない。

サブスリーの為の練習をやる、それだけは絶対にやろうと思った。
ボクに出来る練習をするのではなくて、サブスリーが出来る練習をするのだ。
その為の練習によって故障したら、それはそれで構わないと思った。
大きな勲章を手にするか、それとも、とてつもない挫折を体感するかもしれない。
それで構わない。勝つか、負けるか、そういう真剣勝負がしたかったのだ。
それが必要だったのだ。ボクが本当に欲しいのはサブスリーだけなんだから。

いつの日か、ボクは小説家になろうと思っている。
村上春樹のような文章は書けないけれど、ランナー小説家になりたいと思う。
そのための必要な対価は支払わなければいけないと、ボクは考えている。
夢、目標、希望、野望、野心、意欲、挑戦、使命、課題、継続、などである。
そういうことのすべては、あるいはその一部は、あのマラソンが教えてくれた。
目標に向かって対価を払い続けているランナーが教えてくれた。
門前仲町のTake先生が教えてくれた。
Thank you for the runninng.  Thank you for your kindness.

人間にとって成功とはいったい何だろう。
結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、
努力したかどうか、ではないだろうか。
岡本太郎(芸術家、1911〜1996)『強く生きる言葉』

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