「ナ・マ・ケ・モ・ノ(怠け者)」と答えたボクを、彼女はニヤリと笑った。
「あなたは間違えている、それと少し、シツレイ(失礼)だと思うわ」と彼女は言った。
「えっ失礼って?Aさんに、それとも自分自身に対して?」驚きながらボクは尋ねた。
「あなたではないし、わたしでもない、失礼なのは動物のナマケモノに対して。
あのねぇ、ナマケモノは名前がナマケモノだけど、それは動きの遅いナマケモノ
を人間が勝手につけたネーミングであって、ナマケモノ、イコール、怠け者では
ないの。何を言っているのか意味分かったぁ?(ボクが肯くと、彼女は微笑む)
もちろん、ナマケモノの中には働き者もいるし、普通もいるし、怠け者もいるわ。
でもそれは、何もナマケモノだけに限ったことではないでしょう」と彼女は言った。
「うん、確かにそうだ。ナマケモノのことを知らないのに失礼な言い方だった・・・」
ボクは素直にそう言った。おやつを食べすぎて叱られた子どもの気分だった。
ところがまだ、彼女の話しは終わっていなかった。
「ねぇ、そうでしょう!それにあなたは、怠け者ではないでしょう」
「もちろんボクはナマケモノではない、人間だ!」と即答すると彼女はきっと睨んだ。
「そう、あなたは確かに人間ね(笑)・・・ねぇ〜お願いだから茶化さないでくれる!」
ボクは「ごめん」と言った。美しい女性教師に叱られた子どものような気持ちだった。
「そもそもなんだけどねぇ、本当に怠け者のひとは自分のことを怠け者とは
決して言わないわ。それは何故だか分かる?(ボクは首を横に振った)
怠け者は誰かのせいにしたり、何かのせいにして自分を責めようとはしない。
自分が怠け者だとは考えないようにしている。そうは考えたくないのね。
もし自分のことを本当に怠け者だと考えたら、それは反省することになるし、
本当に反省したとしたら、怠け者は怠け者を卒業することになる、でしょ?」
笑顔を絶やすことのない彼女の熱弁だった。ボクは少し圧倒されていた。
手数の多い相手の連打に、ガードを固めている消極的なボクサーだった。
なかなか反撃ができない。このままではいけないと思った。
ボクは左ジャブを繰り出すように、彼女に言葉を投げかけてみた。
「うん、なるほど。怠け者は反省しない、ということなんだね。
そう言えば、たしかイギリスの諺(ことわざ)に、こういうのがあった。
”働き者が成功したのは運がよかったのだ、と怠け者は言う”」
「ねぇ、その言葉をもう1回言ってくれる?」と言いながら、彼女は椅子に
置いてあったベージュ色のショルダーバッグに手を伸ばした。そこから、
手のひらくらいの小さな手帳と黒いボールペンを素早く取り出した。
「わたしってねぇ、メモ魔なの。すぐに忘れちゃうから、こうやって気づいた
ときにすぐに書いておくの。ちょっだけ待っててね。はたらきものが・・・・・」
と復唱しながら手帳に書き込んでいく、その瞳は真剣そのものだった。
彼女が手帳に書き込んでいる時間は、思いのほか長く感じた。
少し書いてはぺんが止まり、何かを考えてから、また書き始めていた。
ボクの話した言葉だけではなく、他にも何かを考えながら書き込んでいた。
その様子をじっ〜と見ているのは、何か気が引けたのでボクは時計を見た。
長いほうの針があと5分経過すると、午後1時になるところだった。
初秋のオープンカフェに、少し強めの陽射しが降り注いでいた。
狼の遠吠えのように、都会の雑踏のざわめきが遠くの方から聞こえた。
環七を走っている大型トラックの圧縮解放ブレーキを踏み込んだプシュッ!
プシュッ!という連続音が地響きのように聞こえた。誰かの話し声も聞こえた。
7メートルくらい先のテーブルにいる40歳前後の女性二人が話をしていた。
一人はやたらと細くて長い煙草を誇らしげに吸っていた。「わたしは私なりに
精一杯やっているっていうのに、あの人たちはどうして分かってくれないの!」
と憤慨しているように見受けられた。もう一人は、日曜日の竹下通りをぶらぶら
と歩いている女子高生が持っているオレンジ色のきらきらしたショルダーバック
をテーブルの上に投げ出していた。しかし、彼女達がきらきらとした女子高生で
あったのはかなり昔のことだった。その二人のうちのどちらかは、キンキンと
する声の持ち主だった。二日酔いの朝には、絶対に耳にしたくない声質だった。
紫煙を漂わせながら、キンキン声を発しながら、二人の女性がこちらを食い入る
ようにじっ〜と見ていた。そこに遠慮とか躊躇は、まったく存在していなかった。
ボクの視線と彼女たちの視線が、まともにぶつかった。完全な正面衝突だった。
こちらを見ながら、こちらに関することを、彼女たちが話題にしていたようだった。
ある種の女性達が、何よりも好んでいる情報に出くわして、それに飛びついて、
夢中になって興奮している、そういう雰囲気だった。ボクは不快感を感じた。
走っているときに、靴の中に小石が入ってきたみたいだった。
ボクは思っていた、誰かに関心を持たれるような魅力的な人間になりたいと。
しかし実際に、こうやって見ず知らずの人に、じろじろ見られて、こそこそと話を
されることは、それは想像以上に耐え難い苦痛なんだと、ボクは痛感した。
ところが彼女は、そんなことは何も気にしていないように、見受けられた。
手帳に書き込んでいた作業が終わると、彼女は満足そうな表情を浮かべながら
ボールペンのキャップをカチッとしまった。そしてボクを見た彼女は・・・・・・・。
笑顔は、人の心をおだやかにする。なごませる。幸福な気持ちにする。
これは、立派に人に喜びを与える行為であり、
また、もっとも手軽にできる行為でもある。
植西聰(心理カウンセラー)『スッと気持ちが楽になる言葉』

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