教訓その1 正直な人間になれ!
「質問1つはOK牧場だからどうぞ!」と彼女が言ったから尋ねたのに・・・・・。
そういう意味では、ボクにしては珍しく素直で正直だったと思うのだ。
「正直な人間になりなさい」、大昔に言われたこんな言葉をボクは思い出した。
あれは義務教育が始まったころに母に叱られたときの、お説教の言葉だった。
あの教えをただ忠実に守ろうとしたのに、なにがいけなかったのだろうか。
母の教えに間違いか?いや、そういう考えの方がむしろ大きな間違いだ。
いい歳して、ボヘミアンラプソディのように、”ママ〜ウウウウ〜ママ助けて〜”
なんてことを言った奴は豆腐の角に頭をぶつけて・・・・・・馬プラス鹿なのだ。
よ〜く考えてみる。そうだ。きっとこれは新しく改定された教訓(その2)なのだ。
教訓その2 人間というのは本当のことを言われると怒るものである!
いや、そういえば今頃になって思い出してたことがある。あれはたしか義務教育の
最終年度だった。 ボクと同じクラスにとても意地悪な眼をしていた奴(男)がいた。
カップラーメンと言えばカップヌードルのように、イジワルな眼と聞かれたら彼の瞳
がいまだに浮かんでくるほどだ。それはたぶん、ボクに限ったことではないだろう。
たとえば1つの試みとして、彼のことを全く知らない100人に意地悪な瞳を想像して
それを実際に絵に描いてもらったら、100人の描いた瞳のすべては彼の2つの眼と
正確無比に合致するだろう。それほど代表的でポピュラーな意地悪な眼である。
意地悪な瞳だけではなく、彼は意地悪だった。底意地が悪い、性悪、粗暴だった。
彼はしばしば暴力的だったが、その傾向(行動)はつねに彼より弱者に限定して
最大限に発揮されたのである。つまり露骨で大胆な弱い者イジメをしていたのだ。
触らぬ神に祟(たた)りなし。ある意味では、彼は対極的な神様だった。 ボクは、
そのような神様には極力近づかないようにした。いつも神経を使っていたのだった。
つまり嫌っていたのだ。そんな彼の言うこと(発言)は芸能人の運動会と同じように
ボクには何の興味も感心もなかった。ところがそんな彼があるときに、まるで教訓
みたいな言葉を発言したことがあった。いや、それは言葉というよりは唾を吐き捨
てたように忌々しい呪いのような戯言だった。じつに癪に障る(しゃくにさわる)が、
彼の戯言(教訓その3)をボクは思い出した。それもこんなときに。やれやれ。
教訓その3 正直者が馬鹿を見るんだぁ!
そんな彼には後日談があった。義務教育が終わってから1年後に彼は学校を中退
したのである。詳しい事情は知らないが(知りたくない)、たとえどのように中立的な
思考で推測したところで、それ(中退)は彼の希望したことではなかったはずだ。
つまり、彼は馬鹿を見たのだ。もちろん彼は主張通りに正直者ではなかった。
言い訳、言い逃れ、隠ぺいを駆使しながら非道な振る舞いを巧みに偽装していた。
それなのにどうして彼は自ら墓穴を掘ってしまったのか。馬鹿を見たのだろうか。
ボクは考えた。怪我の功名の如く、そこには何かしらの教えがある、はずなのだ。
彼からの教訓その1・・・・・体験、経験は財産になるのだ!
繊細で多感だった思春期に、彼のような傍若無人な人間を目の当たりにして
ある種の免疫力をボクに培養させた。自己防衛の重要性を学ばせてくれた。
彼の存在そのものこそが、ボクにとって大きな教訓(教材)になったのである。
彼からの教訓その2・・・・・問題は何か、本質を見抜くのだ!
当時のボクは彼に対して全否定だったが今では違った思考を持ち合わせている。
たとえば中学生などの私生活が荒れてくる背景には、家庭環境などの本人以外
の場所に已むを得ない原因が多分にある、ということもあるのだ。
彼からの教訓その3・・・・・どのような批判にも、自分が含まれるのだ!
今になってから、しかも本人を目の前にすることなく当時の彼をこのようなブログ
で一歩的に批判する行為は少なからず無責任である。そう今頃になってなのだ。
あのときのボクは単なる傍観者に過ぎなかった。彼の振る舞いに大きな嫌悪感
を抱いていたにも関わらず、そんな彼を遠巻きに見ていただけ、だったのである。
あるいは見ないように見て見ぬフリをしていた。そのように装っていたのである。
必要な時に、とるべき行動に移さない人間の語る正義感などは波打ち際の砂浜
に清潔な優等生パット・ブーンが記した”砂に書いたラブレター”と同じではないか。
あるいは、画用紙に描いた食えない鏡餅と同じであり、そんなものは奈良公園の
鹿だって食べないのだ。
彼からの教訓その4・・・・・人間だもの、失敗したっていいじゃないか!
あの頃、たしかに彼は失敗した。ではボクはどうか?やはり失敗したのである。
年がら年中である。いまでも相変わらずに懲りずに、ボクは失敗しているのだ。
昨夜は、ボヘミアンラプソディの楽譜を読み間違えてギター練習をしていたのだ。
新しいことを始めると、もちろん失敗するし、同じことをやっていても、ときには
馬鹿みたいな下らない失敗をするのだ。はがま〜はがま〜羽釡の御飯(象印)
彼からの教訓その5・・・・・半生を生きた人間は反省するのだ!
失敗したって?それで・・・。ふ〜ん、それはそれで大いに結構じゃないですか。
ただし、ボク(あなた)の失敗を肯定するためには1つだけ条件があるのです。
水谷豊に相棒のように、失敗には、これがなくてはならないという必要条件がある。
愛と勇気にアンパンマンが必要なように、ザ・タイガースに加橋かつみ、お刺身に
醤油とわさび、そして空に太陽が必要なように、失敗には反省が必ず必要なのだ。
彼からの教訓その6・・・・・あらゆるすべては、感謝へ集約されるべきだ!
たくさんの教訓を教示してくれて、ありがとう。
ブログの執筆にインスピレーションを与えてくれて、ありがとう。
こんなブログを読んでくれたあなたに、誰かさんに、皆さんに、ありがとう!
いや、ちょっと待った! なに、の・ほ・ほ・ん、としているんだよ。
・・・・・まったく。いまのボクは、それどころじゃなかったんだ。
満島ひかりと同級生の女優さんが怒っている。ボクが怒らせてしまったんだ。
う〜ん。なんとかなるかどうか分からないけれど、なんとかしないと・・・・・。
人生は無限の教訓に満ちあふれている。
しかしどの一つとってみても、万人にあてはまるものはない。
それを教訓にするかどうかは、君自身の選択にかかっている。
山本周五郎大正・昭和の小説家、1903〜1967)
「質問1つはOK牧場だからどうぞ!」と彼女が言ったから尋ねたのに・・・・・。
そういう意味では、ボクにしては珍しく素直で正直だったと思うのだ。
「正直な人間になりなさい」、大昔に言われたこんな言葉をボクは思い出した。
あれは義務教育が始まったころに母に叱られたときの、お説教の言葉だった。
あの教えをただ忠実に守ろうとしたのに、なにがいけなかったのだろうか。
母の教えに間違いか?いや、そういう考えの方がむしろ大きな間違いだ。
いい歳して、ボヘミアンラプソディのように、”ママ〜ウウウウ〜ママ助けて〜”
なんてことを言った奴は豆腐の角に頭をぶつけて・・・・・・馬プラス鹿なのだ。
よ〜く考えてみる。そうだ。きっとこれは新しく改定された教訓(その2)なのだ。
教訓その2 人間というのは本当のことを言われると怒るものである!
いや、そういえば今頃になって思い出してたことがある。あれはたしか義務教育の
最終年度だった。 ボクと同じクラスにとても意地悪な眼をしていた奴(男)がいた。
カップラーメンと言えばカップヌードルのように、イジワルな眼と聞かれたら彼の瞳
がいまだに浮かんでくるほどだ。それはたぶん、ボクに限ったことではないだろう。
たとえば1つの試みとして、彼のことを全く知らない100人に意地悪な瞳を想像して
それを実際に絵に描いてもらったら、100人の描いた瞳のすべては彼の2つの眼と
正確無比に合致するだろう。それほど代表的でポピュラーな意地悪な眼である。
意地悪な瞳だけではなく、彼は意地悪だった。底意地が悪い、性悪、粗暴だった。
彼はしばしば暴力的だったが、その傾向(行動)はつねに彼より弱者に限定して
最大限に発揮されたのである。つまり露骨で大胆な弱い者イジメをしていたのだ。
触らぬ神に祟(たた)りなし。ある意味では、彼は対極的な神様だった。 ボクは、
そのような神様には極力近づかないようにした。いつも神経を使っていたのだった。
つまり嫌っていたのだ。そんな彼の言うこと(発言)は芸能人の運動会と同じように
ボクには何の興味も感心もなかった。ところがそんな彼があるときに、まるで教訓
みたいな言葉を発言したことがあった。いや、それは言葉というよりは唾を吐き捨
てたように忌々しい呪いのような戯言だった。じつに癪に障る(しゃくにさわる)が、
彼の戯言(教訓その3)をボクは思い出した。それもこんなときに。やれやれ。
教訓その3 正直者が馬鹿を見るんだぁ!
そんな彼には後日談があった。義務教育が終わってから1年後に彼は学校を中退
したのである。詳しい事情は知らないが(知りたくない)、たとえどのように中立的な
思考で推測したところで、それ(中退)は彼の希望したことではなかったはずだ。
つまり、彼は馬鹿を見たのだ。もちろん彼は主張通りに正直者ではなかった。
言い訳、言い逃れ、隠ぺいを駆使しながら非道な振る舞いを巧みに偽装していた。
それなのにどうして彼は自ら墓穴を掘ってしまったのか。馬鹿を見たのだろうか。
ボクは考えた。怪我の功名の如く、そこには何かしらの教えがある、はずなのだ。
彼からの教訓その1・・・・・体験、経験は財産になるのだ!
繊細で多感だった思春期に、彼のような傍若無人な人間を目の当たりにして
ある種の免疫力をボクに培養させた。自己防衛の重要性を学ばせてくれた。
彼の存在そのものこそが、ボクにとって大きな教訓(教材)になったのである。
彼からの教訓その2・・・・・問題は何か、本質を見抜くのだ!
当時のボクは彼に対して全否定だったが今では違った思考を持ち合わせている。
たとえば中学生などの私生活が荒れてくる背景には、家庭環境などの本人以外
の場所に已むを得ない原因が多分にある、ということもあるのだ。
彼からの教訓その3・・・・・どのような批判にも、自分が含まれるのだ!
今になってから、しかも本人を目の前にすることなく当時の彼をこのようなブログ
で一歩的に批判する行為は少なからず無責任である。そう今頃になってなのだ。
あのときのボクは単なる傍観者に過ぎなかった。彼の振る舞いに大きな嫌悪感
を抱いていたにも関わらず、そんな彼を遠巻きに見ていただけ、だったのである。
あるいは見ないように見て見ぬフリをしていた。そのように装っていたのである。
必要な時に、とるべき行動に移さない人間の語る正義感などは波打ち際の砂浜
に清潔な優等生パット・ブーンが記した”砂に書いたラブレター”と同じではないか。
あるいは、画用紙に描いた食えない鏡餅と同じであり、そんなものは奈良公園の
鹿だって食べないのだ。
彼からの教訓その4・・・・・人間だもの、失敗したっていいじゃないか!
あの頃、たしかに彼は失敗した。ではボクはどうか?やはり失敗したのである。
年がら年中である。いまでも相変わらずに懲りずに、ボクは失敗しているのだ。
昨夜は、ボヘミアンラプソディの楽譜を読み間違えてギター練習をしていたのだ。
新しいことを始めると、もちろん失敗するし、同じことをやっていても、ときには
馬鹿みたいな下らない失敗をするのだ。はがま〜はがま〜羽釡の御飯(象印)
彼からの教訓その5・・・・・半生を生きた人間は反省するのだ!
失敗したって?それで・・・。ふ〜ん、それはそれで大いに結構じゃないですか。
ただし、ボク(あなた)の失敗を肯定するためには1つだけ条件があるのです。
水谷豊に相棒のように、失敗には、これがなくてはならないという必要条件がある。
愛と勇気にアンパンマンが必要なように、ザ・タイガースに加橋かつみ、お刺身に
醤油とわさび、そして空に太陽が必要なように、失敗には反省が必ず必要なのだ。
彼からの教訓その6・・・・・あらゆるすべては、感謝へ集約されるべきだ!
たくさんの教訓を教示してくれて、ありがとう。
ブログの執筆にインスピレーションを与えてくれて、ありがとう。
こんなブログを読んでくれたあなたに、誰かさんに、皆さんに、ありがとう!
いや、ちょっと待った! なに、の・ほ・ほ・ん、としているんだよ。
・・・・・まったく。いまのボクは、それどころじゃなかったんだ。
満島ひかりと同級生の女優さんが怒っている。ボクが怒らせてしまったんだ。
う〜ん。なんとかなるかどうか分からないけれど、なんとかしないと・・・・・。
人生は無限の教訓に満ちあふれている。
しかしどの一つとってみても、万人にあてはまるものはない。
それを教訓にするかどうかは、君自身の選択にかかっている。
山本周五郎大正・昭和の小説家、1903〜1967)
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