たとえ彼女が有名人でなかったとしても・・・・・
たしかに、たしかに原因はある。しかしそれは、たしかな原因ではない。
そういうものが人生には意外にいっぱいあるし、そういうものが人生には
想像以上に少なかったりする。そしてそれは、そういうものの1つだろう。
みのり会商店街で自転車を押していたときに、足元から上がってきた冷たい
ものは、大昔に枯渇した深くて暗い井戸の底のような悲しさと淋しさだった。
商店街にある街頭スピーカーから流れたBGMは、サイモンとガーファンクル
の代表曲の1つである「明日に架ける橋」。地上3メートルに設置してある安物
のスピーカーから、高野豆腐のように悲しみをたっぷりと浸み込ませてから、
地上に向かってしんしんと降り注いでいた。繊細な北国の粉雪みたいに。
薄暗くて肌寒い夕刻の下町商店街で耳にするには、少なくてもボクにとっては
あまりにも悲しかったが、それでもそこまでは何とか堪えて踏みとどまっていた。
本当なら、甘やかされた子どものように無邪気に泣きたかったが、飛び込み台
のプールのように目尻のしわが深くなった53歳では、そういう訳にはいかない。
きっとBGMが変われば、マイナーコードが変われば、おでんを紀文に変えれば
ボクの気分は変わるだろうと思っていたが、その考え方はペコちゃんのケーキ
のように、過去の怠惰を宝くじで清算しようと考えるように、あまりにも甘すぎた。
耳掃除で取れる耳垢くらいは期待していた次曲は、世界にひとつだけの孤独を
心ゆくまでたっぷりと体感させてくれる名曲、「ミスターロンリー」だった。
どうしてこんなに悲しくて切なくなってしまうBGMを、さら〜と流しているのか。
いったい誰のために、いったい何のために、どういう効果があると言うのか。
そもそも商店街の腹のうちは、地元で沢山の買い物をしてもらうことだし、
そのためには買物客の気分を高揚させる、リラックスの心理効果を担う
街頭BGMであるはずだ。たとえば、パチンコ屋さんの軍艦マーチのように。
とどのつまりは買物客を楽しくさせて、うきうきさせて安心させて、唐揚げを
もう一品、焼鳥を塩で5本、リンゴひとやま300円、一年中特売セール中の
流行遅れのブラウス等を買物客に買わせたい、買ってもらいたいのだ。
それなのに、それだったら、どうしてあの、「ミスターロンリー」なのだろうか。
ジェットストリーム(FM東京)のオープニングと城達也の重厚なナレーション
青春映画「グローイング・アップ」の失恋シーンで流れる”ミスターロンリー”。
とてもじゃないけど、商店街をぶらぶら歩きながら焼き芋とアボガドを買いたく
なる気分ではない。ゾンビの身体のように冷めたくなった河川敷のコンクリート
ブロックに一人ぼっちでベタッと座り込んで、吹き行く風に微かに波打つ川面を
太宰治のように、ただ静かに眺めていたい。頭の上から「ミスターロンリー」が
しんしんと降り注いできたら、ボクだったらそう思う。そしてそれはボクだけでは
ないはず。そのことを実際に年老いたフクロウのような目で確かめようと思った。
映画館で泣いているときに、ふと我に返って周りの状況を確認したくなるように。
「いらっしゃい!いらっしゃい!」と八百屋さんの威勢のいい掛け声が響き渡る。
森進一と北島三郎を足して2で割って、少し濡らして少し乾かしたダミーなダミ声。
「もぉ〜う、何やってんのよ、早くしなさいよ!」子どもを叱るお母さんの金切声を
休憩なしで15分以上聞かされたら、ボクはひとりで無人島へ旅立ってしまう。
「コロッケ4つとハムカツを2つね!・・・ハイよぉ〜!」 「煮込み200グラムね!」
手に取って林檎を見比べる主婦、走り回る子ども達、きょろきょろするオバサン。
そこは、淋しさも悲しさもまったく関係のない場所だった。「ミスターロンリー」の
ことなんか誰も気にしていない。 というか、だれ一人として聞いていなかった。
自分だけのズレを考える。ときどき、自分だけがズレていると感じるのだ。
大空をわたる安定した集団飛行の群れから、一羽だけ外れて行くの鳩のように。
寂しさには理由があるけれど、そこには理由はない。「ミスターロンリー」のように。
あのとき、あの場所で、ボクは、「ミスターロンリー」のBGMを想いだした。
その場所は、複合型多目的ショッピングセンターの1階のオープンカフェだった。
アリオ亀有の銀色のぴかぴかに輝く丸いテーブルのこちら側にボクは座っていた。
あちら側には、つまりボクの正面には女性が座っていた。もし街ですれ違ったら
コンタクトレンズをしていたら、お金が落ちていないかの視線が下でなかったら、
絶対に振り返ってしまうほどの美貌だ。たとえ彼女が有名人でなかったとしても。
このブログを読み続けている希少な読者にとっては、”おいおい何だよ!話しが
本筋から外れて地球を七周半してから、今頃になってそこに戻ってくるかよ!”
という都議会議員のような不満を言いたくなるだろう。そのツッコミは当然だ。
そして更に核心的な意見を申し出るなら、いやもっと直接的に言うなら、青大将
のように唾を飛ばしながら、雪ん子のように顔を赤くしながら必ずこう言うだろう。
あなた(ボク)がこのブログで書いている目的とは何だろうか。ここに何を書きたい
というのか?読者である自分が、何故こんなブログを読んで人生の貴重な時間を
潰さなくてはいけないのか。それはそうと、あなたの前に座って二人だけで30分
以上も話している有名人は、誰でも知っている女優さんとは、いったい誰なのか?
そしてその美しい女優さんとは単なる暇つぶしの世間話だけか、あるいは他に
何かしらの進展などないと思うが、ないと思いたいが、まさかあると言うのか?
なかでも、上記の最後の3行の問いがもっとも致命的である。
というのは、その問いに対して、ボクは次のように答えるしかすべがないのだ。
”冷静さを奪うもの”を最終回までお読みになれば、おのずから分かることです、と。
常に沈着冷静でいられる方法は、
「思いもよらない事が必ず起こるぞ」ということを、覚悟していることです。
「準備というのは、必ず不完全なものなり」と思っていることです。
西堀栄三郎(登山家・化学者・第一次南極越冬隊隊長、1903〜1989)
![img_385153_11952323_4](https://livedoor.blogimg.jp/asahies/imgs/7/6/765da05d-s.jpg)
たしかに、たしかに原因はある。しかしそれは、たしかな原因ではない。
そういうものが人生には意外にいっぱいあるし、そういうものが人生には
想像以上に少なかったりする。そしてそれは、そういうものの1つだろう。
みのり会商店街で自転車を押していたときに、足元から上がってきた冷たい
ものは、大昔に枯渇した深くて暗い井戸の底のような悲しさと淋しさだった。
商店街にある街頭スピーカーから流れたBGMは、サイモンとガーファンクル
の代表曲の1つである「明日に架ける橋」。地上3メートルに設置してある安物
のスピーカーから、高野豆腐のように悲しみをたっぷりと浸み込ませてから、
地上に向かってしんしんと降り注いでいた。繊細な北国の粉雪みたいに。
薄暗くて肌寒い夕刻の下町商店街で耳にするには、少なくてもボクにとっては
あまりにも悲しかったが、それでもそこまでは何とか堪えて踏みとどまっていた。
本当なら、甘やかされた子どものように無邪気に泣きたかったが、飛び込み台
のプールのように目尻のしわが深くなった53歳では、そういう訳にはいかない。
きっとBGMが変われば、マイナーコードが変われば、おでんを紀文に変えれば
ボクの気分は変わるだろうと思っていたが、その考え方はペコちゃんのケーキ
のように、過去の怠惰を宝くじで清算しようと考えるように、あまりにも甘すぎた。
耳掃除で取れる耳垢くらいは期待していた次曲は、世界にひとつだけの孤独を
心ゆくまでたっぷりと体感させてくれる名曲、「ミスターロンリー」だった。
どうしてこんなに悲しくて切なくなってしまうBGMを、さら〜と流しているのか。
いったい誰のために、いったい何のために、どういう効果があると言うのか。
そもそも商店街の腹のうちは、地元で沢山の買い物をしてもらうことだし、
そのためには買物客の気分を高揚させる、リラックスの心理効果を担う
街頭BGMであるはずだ。たとえば、パチンコ屋さんの軍艦マーチのように。
とどのつまりは買物客を楽しくさせて、うきうきさせて安心させて、唐揚げを
もう一品、焼鳥を塩で5本、リンゴひとやま300円、一年中特売セール中の
流行遅れのブラウス等を買物客に買わせたい、買ってもらいたいのだ。
それなのに、それだったら、どうしてあの、「ミスターロンリー」なのだろうか。
ジェットストリーム(FM東京)のオープニングと城達也の重厚なナレーション
青春映画「グローイング・アップ」の失恋シーンで流れる”ミスターロンリー”。
とてもじゃないけど、商店街をぶらぶら歩きながら焼き芋とアボガドを買いたく
なる気分ではない。ゾンビの身体のように冷めたくなった河川敷のコンクリート
ブロックに一人ぼっちでベタッと座り込んで、吹き行く風に微かに波打つ川面を
太宰治のように、ただ静かに眺めていたい。頭の上から「ミスターロンリー」が
しんしんと降り注いできたら、ボクだったらそう思う。そしてそれはボクだけでは
ないはず。そのことを実際に年老いたフクロウのような目で確かめようと思った。
映画館で泣いているときに、ふと我に返って周りの状況を確認したくなるように。
「いらっしゃい!いらっしゃい!」と八百屋さんの威勢のいい掛け声が響き渡る。
森進一と北島三郎を足して2で割って、少し濡らして少し乾かしたダミーなダミ声。
「もぉ〜う、何やってんのよ、早くしなさいよ!」子どもを叱るお母さんの金切声を
休憩なしで15分以上聞かされたら、ボクはひとりで無人島へ旅立ってしまう。
「コロッケ4つとハムカツを2つね!・・・ハイよぉ〜!」 「煮込み200グラムね!」
手に取って林檎を見比べる主婦、走り回る子ども達、きょろきょろするオバサン。
そこは、淋しさも悲しさもまったく関係のない場所だった。「ミスターロンリー」の
ことなんか誰も気にしていない。 というか、だれ一人として聞いていなかった。
自分だけのズレを考える。ときどき、自分だけがズレていると感じるのだ。
大空をわたる安定した集団飛行の群れから、一羽だけ外れて行くの鳩のように。
寂しさには理由があるけれど、そこには理由はない。「ミスターロンリー」のように。
あのとき、あの場所で、ボクは、「ミスターロンリー」のBGMを想いだした。
その場所は、複合型多目的ショッピングセンターの1階のオープンカフェだった。
アリオ亀有の銀色のぴかぴかに輝く丸いテーブルのこちら側にボクは座っていた。
あちら側には、つまりボクの正面には女性が座っていた。もし街ですれ違ったら
コンタクトレンズをしていたら、お金が落ちていないかの視線が下でなかったら、
絶対に振り返ってしまうほどの美貌だ。たとえ彼女が有名人でなかったとしても。
このブログを読み続けている希少な読者にとっては、”おいおい何だよ!話しが
本筋から外れて地球を七周半してから、今頃になってそこに戻ってくるかよ!”
という都議会議員のような不満を言いたくなるだろう。そのツッコミは当然だ。
そして更に核心的な意見を申し出るなら、いやもっと直接的に言うなら、青大将
のように唾を飛ばしながら、雪ん子のように顔を赤くしながら必ずこう言うだろう。
あなた(ボク)がこのブログで書いている目的とは何だろうか。ここに何を書きたい
というのか?読者である自分が、何故こんなブログを読んで人生の貴重な時間を
潰さなくてはいけないのか。それはそうと、あなたの前に座って二人だけで30分
以上も話している有名人は、誰でも知っている女優さんとは、いったい誰なのか?
そしてその美しい女優さんとは単なる暇つぶしの世間話だけか、あるいは他に
何かしらの進展などないと思うが、ないと思いたいが、まさかあると言うのか?
なかでも、上記の最後の3行の問いがもっとも致命的である。
というのは、その問いに対して、ボクは次のように答えるしかすべがないのだ。
”冷静さを奪うもの”を最終回までお読みになれば、おのずから分かることです、と。
常に沈着冷静でいられる方法は、
「思いもよらない事が必ず起こるぞ」ということを、覚悟していることです。
「準備というのは、必ず不完全なものなり」と思っていることです。
西堀栄三郎(登山家・化学者・第一次南極越冬隊隊長、1903〜1989)
![img_385153_11952323_4](https://livedoor.blogimg.jp/asahies/imgs/7/6/765da05d-s.jpg)
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