13時予備校の恋(25)
「それ、さっき話したよね」彼女は渋谷区松濤の子犬み
たいにクスッと笑った。上品で可愛らしい笑い方だった。
勿論、子犬なんかより彼女は断然にチャーミングだ。
貴方は緊張しているの?やっぱりそうなのね。でも良いわ。
そういうところイヤじゃないから。試験が意外と簡単だった
時に浮かべる安堵の色を彼女は瞳の奥にチラッと浮かべた。
半年前からお互いを知っている。二人は同じ教室なので、
名前と顔と声、およその学力は分かっている。しかしそれ
は他の浪人生と同じであり、ただそれだけのことだった。
二人は話をしたことがなかった。その二人は手を伸ばせば
触れる距離で向き合い、見つめ合った。ガラにもなく私は
緊張したが、先生を前にしたときの嫌な緊張ではなかった。
「それで」彼女は進路指導の教師のような顔で切り出した。
「どんな感じなの、どういう気持ち?」高温サウナのよう
に熱のこもった声が、わたしの体温を押し上げる。
ちょっと待ってくれ。前から君を気にかけていたと白状
しろとでも言うか?わたしが困惑と動揺の表情を浮かべる
と、彼女は直ぐに察して女子高校生のように短く翻訳した。
「あの〜、志望校とか、そういう進路のことだけど」
それで少し安心したが、それはそれで答えにくい質問だ。
歌舞伎町で知り合った女性は「俺?青学、週末は鵠沼で
波乗りだよ!」サラリと言えるが、同じ予備校だから戯言
は通用しない。嘘は得意だが、真実は苦手な小心男子。
清廉潔白な人間を装い、わたしは生真面目に答えようとした。
「俺は日大一高、日大の附属校だよ。一年間浪人をして日大
以下(レベル)には行けない。最低でも日大、最高は東大」
すぐにボロが出る。やはり、真面目な話は長続きがしなかった。
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