2017.3.18(土)総武線各駅停車 千葉行き

ところが、男のとった行動は....わたしの想定外だった。

口をへの字にして歩く男は、3歩目に突然クルッと反転した。
黒パーカーの仕上がり具合と哀愁を漂わせた背中を、何か
の記念硬貨と同じように、まったく興味も関心もないわたし
に対して、たっぷりと披露してくれた。

「夢は探すものではなく自分で創りだすもの」という黄金律を
いつかは、誰かが、丁寧に根気強く男に説明すべきなのだ。
ただそれは、今ではない。もしろん、わたしではない。

生まれたばかりの赤ん坊を扱うように、電車はとても柔らかく
ブレーキ踏み、亀戸駅に滑り込む。世界から見放された男は
亀戸天神の亀のような無表情な顔で、ドアに向かって歩く。

車窓から射し込む陽光は、去りゆく悪役へ餞別(せんべつ)
のスポットライトのように、黒パーカーを照らしていた。その
とき、車内の温度が僅かに上がったように、わたしは感じた。

亀戸駅で停車した。ドアが開いた。男は電車を降りる。ドア
が閉まる。男は亀戸駅のホームを歩く。「政治家なんて誰が
やっても同じじゃん」 を口癖にしている共通の人相だ。

ホームで気ままに遊んでいた空気は、ここが勝負とばかりに
勢いよく車内に強行侵入してきた。その結果、油断していた
車内の空気の半分は、あっけなく車外に追い出された。
「 古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しいものを欲し
がるもんでございます 」 鶴田浩二「傷だらけの人生」
新しいほうの空気を選別して、わたしは肺に吸い込んだ。

ろう者とわたしと見知らぬ人間を乗せた電車は、不満を背中
に貼りつけた男を、うしろから追い抜いた。いったい、だれが、
ろう者と男に心を寄せただろうか。もちろん、わたしは違った。
私だけは違った。ろう者にも、黒パーカーにも、関心があった。

ろう者の手話は読み取れなかったが、男の冷淡な視線は読
み取れた(理解)。それは、わたしにとって簡単なことだった。
手のひらの埃(ほこり)を、ふ〜と吹き飛ばすくらいに。

男は、男の座った座席にわたしを座らせたくなかった。学校
が気に入らない。世の中が気に入らない。わたしが気に入ら
ない。なるほど、その男の気持ちはよく分かる。オッケーだ。
なにを隠そう、このわたしだって、わたしが気に入らないのだ。

遠ざかる男の背中に向かい、私は「ありがとう」と小声で呟いた。
昨夜の酒で10年老け込んでいたが、一瞬で8年分を取り戻すこと
に成功した。私の人生において、数少ない成功のひとつだった。

わたしは3秒未満で、素早くその席に座った。男の示してくれた
優しくひねくれた気持ちを、絶対に無駄にしてはいけないのだ。
座席には、男の残していった体温が残っていた。性格の悪い
ヒヨコのように、どんなに心は冷たくても、お尻は温かいのだ。

となりの座席(真ん中)に座っていたオバサンは、いかにもオバ
サンらしい露骨に悔しそうな顔を浮かべた。ガストに3時間以上
いるタイプだ。オバサンは、私の座った隅の席に移動したかった。
大昔の少女(オバサン)に、運動不足の説明は不要だった。
その魅力的なお尻を持ち上げるのは、9秒間の大仕事なのだ。

世界中のすべての風は、わたしの背中を押していた。

やらしさにあふれた微笑みを、わたしは我慢できなかった。


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