2017.3.18(土)総武線各駅停車 千葉行き

結局わたしは、亀戸駅〜平井駅までの時間を無駄
にした。人生をたびたび無駄にする男の本領発揮。


つり革やら、指やら、どうでもいいものを見たり、余計
なことを考えているあいだに、寡黙な各駅停車は寡黙
に走り、平井駅に着き、平井駅を定刻通りに発車した。
わたしの思考と電車の進行に、因果関係はないのだ。

電車が平井大橋に並列する鉄橋を渡れば葛飾区だ。
寅さんの帰る場所、両さんの勤務地、わたしの故郷
わたしの住まい、わたしの職場、わたしの葛飾区。

JR新小岩駅に電車が到着してドアが左右に開いたら
私は降りる。職場へと帰還する。鳩小屋に戻る疲れた
鳩のように。もし、マリリン・モンローのように目を見張る
女性が車内に突然駆け込んできて、貧血をおこしてわ
たしの胸の中に倒れ込んで来たときに、わたしが職場
へ戻るかという質問に対しては、ノーコメントだ。ときと
場合と相手によって、わたしの行動はコロッと変わる。

とにかく、わたしは急がなけらばいけなかった。寝起き
の悪いナマケモノみたいに、モタモタしている暇はない。
駅のベンチに座ってラインをしたり、「時間よ、とまれ」
と、祈る時間も、口ずさむ余裕もなかった。

焦りのスパイラルの中で、わたしの目はくるくる回った。
浴槽の栓を抜いて、排気口の中に渦となって飲み込
まれていく古湯になった気分だった。

そのときに、ある式典の一場面が鮮明に浮かんだ。
2年前の2月、テクノプラザかつしか大ホールだった。
パリッとした濃紺スーツの年配男性が、来賓の挨拶
をしたときの、冒頭の場面だった。

その挨拶の一文(ひとこと)は衝撃的だった。突然、
池のど真ん中に、巨大な隕石が落下した。衝撃と
どよめきの波は、もの凄いスピードで会場の壁に
到達して跳ね返り、今度は反対側の壁にぶつかる。

「わたしの名前は青木です」と手話をしたのは葛飾区
の青木区長だった。区長さんは(わたし・名前・青・木)
この4つの手話単語を、必死に覚えたに違いない。
その努力は無駄ではなかった。そこにいるすべての
人たちに、その思いはしっかりと、確実に伝わった。

会場にいた聴覚障碍者(聴こえないひと)にとっても
わたしにとっても、区長さんの手話挨拶は、まったく
想定外だった。予想と実態の差は、感情の振り幅に
直結する。あの区長さんが、手話で挨拶しているぞ!

会場にいた聴覚障碍者(聴こえないひと)の多くから
驚きと喜び、拍手(手をひらひら)が一斉に沸き起こる。

わたしの胸にグッとこみ上げるものがあった。それが
何であるかは分からなかった。ときにわたしは、感情
の自己分析が上手にできないことがある。

私はまた、昨夜の飲み会を回想した。2軒目に行った
居酒屋の2杯目の焼酎以降は別として、思い出したい
ことは、天然カラーデジタル画像で完璧に再現できた。

青砥のイタリアン(飲み会)での最後だった。椅子の
上に颯爽と立ち上がったのは、YN先生(手話講習会
の講師)。小さな巨人の身長は2メートルになった。

「みなさん、手話の上手下手は問題ではありません」
と先生は言った(手話)。ピカ〜と七色の後光がさして
いる先生を、わたしは下から、拝むように見上げた。

「聴こえない人と話したいという気持ちが一番大事
なんです」 その一瞬で、そこらへんに雑然と漂って
いた空気は澄みきった。 強力な空気清浄機が稼働
したように。見る人の心にしっとりと浸透する保湿性
の優れた癒しの手話だ。

そうだ。それだ。先生のいう通り、気持ちなんだ。

そのとき突然、電車内に何かしらの変化が起こった。
気ままに浮遊していた車内の空気が突然集まり、僅か
な気流を発生させて、それが私の背中を優しく押した。

わたしは、わたしの右手を、三人の前に差し出した。
ゆっくり、ひらひらと。


↑ これは「ねぇ〜ねぇ〜」という相手に呼びかける
話しかける(手話べり)ときに使う、日常的な手話です。
もちろん、聴こえるひと同士でも、よく使います。


85cb73017087ff0974bd8fd97ef17998