2017.3.18(土)総武線各駅停車 千葉行き

手のひらを下にして、前に差し出して、わたしは
その手をひらひら(人を呼ぶように)させた。

手のひらひら(手話=ねぇ〜ねぇ〜)が視界に入った瞬間
三人の目が凍りついた。ダイヤモンドより硬い氷河の目だ。

空港の手荷物カウンターの職員のように、何かを検分する
何かを警戒する、それが危険物かどうかを見極めるようと
するプロフェッショナルの監視の目だ。

三人の目が凍りついたとき、世界は一斉に止まる。時間は
止まり、華厳の滝は止まり、皇居回りを走るランナー、新聞
の高速印刷機もピタッと止まった。

もちろん、わたしのノミの心臓も停止した。混乱を避けるため
だろう、電車だけは動いていたが、それは嘘だ。本当は動い
ていない。普通に動いているフリを、完璧に演じていたのだ。

このような状況下において、私の許された時間は僅かだった。
わたしの所得のように。その僅かな時間にわたしは懸けよう
と思った。ささやかな人生のすべてを。

「わたしは手話を勉強中です」と、わたしは手話を使った。
「わたしは手話講習会に通って3年です。先ほどから皆さん
(三人)の様子を見ていましたが手話が読みとれません
(分からない)」 温かく見守るような目で、三人はわたしを
見つめていた。父兄参観日の親御さんのように。

手話は、まだまだ下手です。ダメなんです、わたしは!」
わたしは手を動かし(手話)、顔には手話をするときに大切
な表情(もちろん手話に限らず表情は大切だが)を顔に貼り
つけた。

「わたしはダメ」という情けない表情は、かなり上手にできた。
何事もダメなわたしには、自然にできる表情であり、使い慣
れたものだ。(なかなかやるじゃないか、ミスターダメ男)

三人の目は、カップアイスをスプーンで150回かき混ぜたように
ふわふわに柔らかくなった。その笑顔を合図に、止まった時間
が復旧した。地球は、太陽まわりを周回する役目を再開した。
電車は走行しているように見せる偽装工作はやめて、本来の
伸び伸びした走りを満喫していた。

わたしが微笑むまえに、三人は顔をくしゃくしゃに崩した。
警戒心を解いただけではなく、親しみをたっぷりと含ませた
キラッキラッの笑顔だった。三人同時の、おまけつきだった。

左端のお爺さんの顔は、これでもかっていうくらいの緩みっぱ
なし。そのお爺さんの人差指がわたしに向かってきてピタリと
止まる。「あんた!」とお爺さんは言った(以下すべて手話)。

「いやいや、あんたの手話は、とっても上手だよ!」

となりのお婆さんは「うん、うん」と首を2度縦振り
その隣りのお婆さんは「うんうんうん」と続けて3回振った。


わたしの左側に座るオバサンは、顔に角度をつけて私を見た。
突然スタートした、わたしの手話を見ていたのだ。新種のうじ虫
のように、何か珍しいものを思いがけず発見したときにする
めったにお目にかかれない目の輝きだった。その目の輝きが
一瞬で消滅したあとに、どんよりした落胆の色が広がった。

おそらくは、うじ虫に関心がないのだろう。分かる人には分かる
し、分からない人には分からない。うじ虫に、どのような魅力が
あったとしても。まったくなかったとしても。

いやいや、あんたの手話は、とっても上手だよ!(三人)

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