KAZUの完全復活を目指して

平成23年1月1日元旦の午前1時 年越しJOGの途中で転倒して大怪我をした。 大腿部と手首の骨折〜救急車の搬送〜2回の入院と手術を経て2月9日に退院。 そして退院後のリハビリ通院は79回をもって、平成23年6月29日に終了した。 さぁこれから、ここから、どこまで出来るのか、本当に復活(完全)出来るのか? 本気でヤルのか、情熱を注げるのか、そして過去を超えられるのか? 質問と疑問に対して、正々堂々と、決して逃げずに、答えを出してみよう。 こういう人生を、こういう生き方を、思い切り楽しんでみよう。 KAZUさんよ、タイトルに負けるなよ!

戦争を考える

避け続けた「8.6」

どこの誰だって、いつだって、楽しいほうがいい。絶対にいい。
だけど人間は、楽しいことと同じくらいに、いやそれ以上に泣か
ないといけない。私はそう考えるようになった。最近になってから
だが、わたしは、あることに気が付いた。涙というものは、自分の
ためではなく、第三者のために流す涙が、重要だということに。

他者の為に流す涙が多いほど、その人は他者(人間)を知ること
になる。他者を知れば、その人は人間に対して、より優しくなれる。
フィリップ・マーロウを例に出すまでもないが、優しさとは強さだ。


「あなたの様に強い人が、どうしてそんなに優しくなれるの?」

「しっかりしていなかったら生きていられない。やさしくなれなかったら
生きている資格がない」(『プレイバック』(早川書房、1959年10月)

自分のことばかり考えていると、より利己的な人間になり、思い通り
にならないことに、他者に対して苛立ちやストレスを感じやすくなる。
その結果として、当人に言えない陰口などをネット上に書き込んだり
政治家や芸能人の失言に、強い憤りを覚えるのだ。

逆説的だが、自分を大切するとは、他者を大切にすることだ。

戦争というのは、相手が分かっているからよけい怒りを感じます。
私はプロ野球を引退後、広島原爆の平和記念資料館に2度行こうと
したのですが、手に汗がにじんで震えて、入ることができなかった。

苦しみだけでなく、怒りと恨みがこみあげてくるのです。よくもこんな
姿に、こんな形で。身代わりで、あれだけの人をね。それはやった方
は言い分があるでしょう。それがないともっと犠牲者が出たとかね。
やられた方は、忘れることができない。

2006年、新聞に載った「8月6日は思い出したくない」という私のインタ
ビューを見て、小学生の女の子から投書が来た。自分は長崎の原爆
資料館を、怖かったけど見てきたと。聞いた時には私の方が恥ずかし
くてね。被爆の当人が行かなくてどうすると。それで、初めて広島の
資料館に行った。その入場券はその女の子に送りました。

(2015.8.7 読売新聞 元プロ野球選手 張本勲さん 75歳)

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オリバーストーン監督

2013.8.6(火)
04:20〜05
:30/ストレッチ・軽く筋トレ・ゆる体操
05:40〜06:25/入浴、ストレッチ・正座
08:30〜09:30/経絡治療院

オリバーストーン監督が語る、「もうひとつのアメリカ史」


アメリカを愛するアメリカ人のオリバーストーン監督が語る、「もうひとつ
のアメリカ史」は、アメリカの近現代史を批判したものである。彼の語る
ところのすべて(あるいは、おおむね)が正しいかどうかは別として、歴史
に対しての姿勢、取り組み、行動力、冷静で建設的なスタンスを、私たちは
もっと真摯に真剣に学ぶべきだろう。

二十四の瞳(ビデオ)、今朝のNHKテレビ(8時15分含む)を観た。
ドン・ジョーンズの「タッポーチョ太平洋の軌跡」、永井隆の「長崎の鐘」を読んだ。
オリバーストーン監督の言葉と行動力、発信力について、ボクは考えてみた。


「プラトーン」「JFK」などで知られる米国の映画監督オリバー・ストーン氏(66)が
4日、広島市内で読売新聞のインタビューに応じ、「原爆投下は戦争を終わらせる
ために必要だったというのは幻想だ。(米国人として)被爆者に謝罪したい」と語った。

ストーン監督は昨年、第2次大戦前夜の1930年代からオバマ大統領登場までの
米国の現代史について、独自の視点で描くテレビドキュメンタリーシリーズ「もうひと
つのアメリカ史」を制作。その中で、原爆投下はソ連(当時)へのけん制が目的で
軍事的に不要だったと主張している。今回は原爆忌に合わせ広島、長崎を初めて
訪問、被爆者との対話などを予定している。

インタビューで、ストーン監督は、原爆を投下した米国は英雄であると教わってきた
と説明したうえで、「80年代までそうした幻想に疑問を差しはさむことはなかったが
歴史をもっと深く見るようになった。

私は歴史に対して建設的でありたい。日本の人々も、米国の神話を
受け入れず、なぜ原爆が落とされたのかを学んでほしい」と話した。
オリバーストーン監督、2013.8.5読売新聞

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風立ちぬ 

映画が終わったら、つっかえ棒がガクッと外れたようにボクはドタバタした。
ドタバタの原因は基本的に映画とは関係がない。スマホの電源を入れたら、
袋とじの週刊ポストのように少しじらされてから、ボクを試すようなきわどい
数値がパッと液晶画面に表示された。アリオ亀有の駐車時間の3時間無料
(映画鑑賞)まで、あと3分しかない。駐車場の車まで急いでも間に合わない
可能性がある。有料になることを覚悟のうえで勝負弱いギャンブラーの顔に
なるか、昼食と買物して無料の駐車券をゲットして、景気回復に少し貢献した
消費者の顔になってから、胸を張ってどうどうと帰るのか。ボクは迷っていた。

扇風機を回すように、首を起点に大きさのわりに中身のない頭を左右交互に
ぐるっと回してみた。冷静になりたいときのボクは、意識して、または無意識の
うちに、そのどちらによって頭をぐるぐると回すことがある。お地蔵さんのように
辛抱づよく同じ姿勢で映画を観ていたので、本当なら10回くらいは連続して回し
たい気分だったけれど、映画を観た人が親爺のぐるぐる回しを目のあたりしたら
「風立ちぬ」の余韻が台無しになるかもしれない。あるいはならないかもしれない。
念には念を押して、自発的に妥協をして、ボクは頭回しを左右1回だけで止めた。
しかし、送りバンド失敗後のクリーンヒットのように、結果的に妥協は正しかった。

電子レンジがチンと教えるように、頭をぐるっと回した瞬間に正解が分かった。
頭の中にある電子レンジを開いてみたら、シウマイを温めたときのようなシュ〜
という蒸気が立ち上り、風船のようにふくらんだラップには「どうでもいいです」
と表記があった。小学校に掲示されている太字の「廊下は走らない!」のように
駐車券のことなんか「どうでもいいです」、たしかにその通りだ。

そんなことに頭を使うより、もっと他に考えなくてはいけないことが、マクドナルド
のようにいっぱいある。もちろん、不完全な頭で考えることは、きわめて不完全
なことだ。たとえば、ゼロ戦の設計はできないし、まともな小説さえ書けない。
結核の治療はできないし、アニメ制作と、「ひこうき雲」だって上手に唄えない。
だからといって、何も考えなくていい訳ではない。不完全な頭で考えたところで
不完全で抽象的で中途半端な結果しか出ないだろう。きっと、たぶん、おそらく。
答えが出ない?そうだ。答えなんかでない。それでいい。不完全な頭を使うため
には、あるいは継続的に鍛錬していくためには、解けない難問に挑むしかない。

蜘蛛の糸が吹っ切れたように、空腹の鼠ように、ボクはテキパキと動き出した。
ユニクロの足の長い店頭マネキンが着用していた七分丈のカーゴパンツを買い、
中華屋さんのランチ写真の1番上にあった半チャンラーメンを食べて、スタバで
一番安かったアイスコーヒーを飲みながら、クリームパンのように柔らかいソファ
に座って、「グアムと日本人」戦争を埋め立てた楽園(山口誠)という本を、1時間
10分のあいだ、集中して読んでいた。

それから、跡形もなく全部の氷が解けきった初心を忘れたアイスコーヒーの残りを
貧乏臭くずるずるとすすりながら、あらためて「風立ちぬ」のことを考えてみた。
平日の9:30からの上映にもかかわらず、座席の90%は埋まっていた。大五郎を
乗せた子連れ狼はいなかったけれど、小学生くらいの子連れのお母さんが以外と
多かった。若者たちとカップルもいた。ボクの両隣りは、ともにご年配の御爺さん。
学生風とOL風、ボクのような、ひとり親爺もいた。早い話が老若男女である。

このような老いも若きもの老若男女を対象とする、つまり商業的成功を目指した
場合の歴史と戦争について、製作者側がどこまで踏み込むのか、踏み込める
のか、あるいは口当たり良くさらっと流すのか、その境界線をどこに引くのか。
ボクは思った。境界線の引き方が後退してきているのではないかと・・・・・。

ぐっと前に踏み込んだら、逃げる、あるいは拒否反応。それでは伝わらない。
それにスポンサーがつかない。映画はヒットしない。
では境界線を下げる。あえて踏み込まない。しかし、それでは伝わらない。
「風たちぬ」が伝えたいこと、感じて欲しいことは、いったい何だろうか。
小学生に伝わるのか、ご年配の方の情感に訴えたのか。
それが分からない。分からないのは、ボクがズレているから、なのか。
不完全な頭には常にその可能性がついてくる。
「終戦のエンペラー」を観てから、また、考えてみようと思う。

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終戦のエンペラー 岡本嗣郎

終戦のエンペラー 岡本嗣郎 読書感想記

追憶(沢田研二)、ひとりぼっちのメリー(アート・ガーファンクル)
よそゆき顔で(荒井由美)、タイム・イン・ア・ボトル(ジム・クロウチ)
あなたがここにいてほしい(ピンク・フロイド)、純愛(片平なぎさ)


たとえば、悲しいときには悲しいと感じる歌が聴きたくなる(ときがある)。
心がブルーなときには、真っ白にキラキラと輝く世界より、むしろ濃紺の
キャンパスに身を沈めたほうがしっとりと馴染んできて落ち着いてくる。

このように人間というのは、ある種の矛盾によって成立している。自分
だけの色を発揮したい気持ちと同時に、自分のカラーを出したくない
目立ちたくない、という異なる思想を抱えているのだが、それを指して
矛盾ではないかと批判すべきではない。そもそもが思想と思考ではない。
もちろん宗教でもない。それは、首から上だけの一部分で考えること
ではなく、身体の全部が本能的に感じること。つまり、生存本能である。

大海原を大群で回遊するイワシは、自己主張(カラー)により子孫を繋い
でいくし、個性を消去(集団行動)することにより外敵から防御している。

サンタナの「僕のリズムを聞いとくれ」のように、自他ともに誇れるなら
「ボクだけの色を見て欲しい」と懇願するだろう。しかし、恰好悪いこと、
情けないこと(たとえば怪我とか病気など)は、決して見てほしくない。
目立ちたくない、自分の色を消したい。だけど、ここでは色を消せない。

そういうときには、自分の色が目立たないところ(場所)に行くしかない。
同じ色の場所を求める、それが防衛本能である。そこに行けばチカラ
を入れなくても、なんの努力しなくても自然と混ざり合って溶け合う。
そのときの状況に応じて、居心地のいい場所を求めて移動して行くのだ。

イワシのように大群で泳げなくなった、心に傷を負った平目(ひらめ)が、
暗い海底にどんよりと沈んでいく。そして悲しみの地底色に同化(保護色)
して、ひっそりとしたエラ呼吸をする。突発的な転倒により、泳げなくなった
50歳の平目が沈んでいったところにあった(見えた)のが歴史と戦争だった。

最初はそんな動機(同化志向)だったから、精神論として決して褒められる
ものではない。ただあえて自己弁論をするならば、または、本音を言わして
もらうならば、ダイエット目的に走りだしたランナーがサブスリーを目指した
ように、大概はそんなものだろうと思うし少なくてもボクの場合はそうだった。

「あぁ〜そうか、そういうことだったのか」。実際に海底に沈んでみたら、それ
までにボクがイメージしていたこと(歴史と戦争)とは大きくかけ離れていた。
イワシの大群の中に混じって皇居のまわりをぐるぐると回遊していたときには
陽光の差し込む紺碧の海水と集団しか見ていなかった。そんなときに、陽の
届かない暗い海底に思いを寄せようなどとは考えなかった。

歴史と戦争を学びだしてから、ボクの内側にある種の変化が起こってきた。
無造作に放り出していたシャツを針金ハンガーに掛けたら、しわになっていた
後ろめたさがすっ〜と伸びたように、潜在的に歪んでいた精神が引っ張られて
本来の形に矯正された。この暗い海底から上部を見上げてみると、いままでの
逃避的な自分の姿に否応なしに気づく。大海原を回遊しながらも、海底のことを
本当は恐れていたし、たしかに、たしかに、ボクは避けていた。

海には必ず海底があること。不安定な自分を見出すこと。世界の海は国境を
越えて繋がっていること。すべての過去(歴史)が現在に繋がっていること。
過去からのバトンをしっかりと受け取ること、そしてバトンを引き渡すこと。
これが歴史を学ぶ本質だと、53歳が目前に迫ったボクは思うのだ。

「七の力を与えられている人が精いっぱい励んで八点を取った。
十の力を与えられている人が九点を取った。人間の目には
九点の方が上でも、神様の目には八点の方がずっと上です」

「お前の戦争に関する意見はまったく正しい。戦争には何の
いい訳も成り立たない。戦った双方の国民とも戦争を望んで
いない。国民を戦争に巻き込むのは、いつも思索によって
問題を解決することを怠った自分勝手な指導者たちだ。
私はこのことを今度の戦争でたくさん学んだ。
きょうまで私はルーズベルト大統領がアメリカ国民を戦争に
巻き込まない努力した行動をひとつも見出すことができない。
そうではなくて逆にあらゆる施策がまっすぐ戦争の向けて
リードされた。(略)
今日では軍事情勢に新しい要素が加わった。科学が人間の
進歩を追い越し、文明を絶滅させる手段を可能にした。
このことは戦争それ事態を避けることが、文明の絶滅を防ぐ
唯一の解決策であることを示している。」

終戦のエンペラー 岡本嗣郎 一部抜粋

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孫に読ませたい本(後編)

2013.4.4(木)
05:15〜06:10/ストレッチ・軽く筋トレ・ゆる体操
06:20〜07:00/入浴、ストレッチ・正座
08:30〜09:30/経絡 治療院

せめて優しく、せめて丁寧に、せめて穏やかに・・・・・

さかなクンがギョ!と喜びそうな魚文字の並んでいる大きな湯呑(ゆのみ)を
両手で包みこむようにすると、店員さんの入れてくれた緑茶の香りと
ジワッとした温かさを同時に、やさしく感じることができる。

お皿が回転しないお寿司屋さんへ行くと、確実に財布が軽くなるけれど、
その代わりに、ある種の特別な温かさと重みを感じる。
ボクは思う。そこに温かい湯呑があるから、そこに両親がいるから、だと。

お寿司が出てくるまでは、また身長が伸びたとか、そういうところは誰に似ているとか
82歳でパソコン教室に通っているとか、お父さん(自分
)の子どもの頃は・・・・・・・とか
笑ったり感心したり、少しむくれたり照れたり、いわゆる、いつもの雑談が続いていた。

いつものように進行していたとき、いつもとは違う、”ちょっとしたこと”が発生した。
いち早く気付いたボクは、いままでの姿勢と視線を変えることなく
”ちょっとしたこと”のほうへ、ウサギがするようにして聞き耳を立ててみた。

お座敷にある、足を下に伸ばせる掘りごたつ式のテーブルから、
「よいしょっ」と立ち上がると、あの人は、長女の隣の席に移動する。
どんな話しがあるのだろうか、祖母から孫に、ボクはとても興味深かった。
楽しくて騒がしい思い思いの会話が飛び交うなかで、断片的に聞こえてくる
昭和一桁(ひとけた)と平成一桁の、二人だけの会話を拾い集めてみる。


ねぇNちゃん(長女)、このあいだね、お父さん(自分)に本をあげたんだけど、
よく考えてみたら、お父さんより、Nちゃんが読んだほうが良いと思うの。
お婆ちゃんは、こう思うのよ、Nちゃん。
これからの長い人生では、楽しいことばかりではなく、
辛いことや悲しいこと、
一人で泣きたいことだって、少なからず必ずあるものよ。
そういうときはね、”置かれた場所で咲きなさい”という本を開いてみなさい。
辛くなったらときには、本のことをを思い出してみてね。
その本を、Nちゃんの机の端に置いておきなさい。


壁に掛けた黒のジャケットを確認するようにして、ボクが振り返ると、
あの人特有の優しい表情、そして、長女の瞳がキラキラと輝いて見えた。
父親が話をするときには、その眼の中に反抗的な光を含ませるのに
祖母からの言葉には、何の疑いのない純粋な眼差しを長女はしている。
やや難しい年頃なんだけど、根は優しい娘なんだなぁ、と少し嬉しく思う。

お店を出たところでは、いつもの様子が繰り広げられていた。
あの人と両手で握手すると、少し恥ずかしそうにする長男(小6)。
あの人が軽く抱きしめると、嬉しそうに笑顔になる長女(高1)。

「ありがとうね、風邪ひかないように、じゃあまたねぇ」
そう言って、父と同時に嬉しそうに背中を向けた、あの人は82歳。
少し小さくなったように見える、あの人の背中を見ていたら、ボクの内側から
何かしらのジワッとしたものが、湧き出てくるのを感じていた。

できることなら、できるならば、あの人達の時間がゆっくりと流れて欲しい。
スピード調整が無理ならば、せめて優しく、丁寧に、穏やかに、と願っている。

孫に読ませたい本を、ありがとう、お母さん(^∀^)


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境遇を選ぶことはできないが、生き方を選ぶことはできる。
「現在」というかけがえのない時間を精一杯生きよう。


どんなところに置かれても花を咲かせる心を持ち続けよう。
「置かれた場所で咲きなさい」P15より 渡辺和子

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鳥唐定食、コーヒー、924円 華屋与兵衛 東新小岩店
















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