KAZUの完全復活を目指して

平成23年1月1日元旦の午前1時 年越しJOGの途中で転倒して大怪我をした。 大腿部と手首の骨折〜救急車の搬送〜2回の入院と手術を経て2月9日に退院。 そして退院後のリハビリ通院は79回をもって、平成23年6月29日に終了した。 さぁこれから、ここから、どこまで出来るのか、本当に復活(完全)出来るのか? 本気でヤルのか、情熱を注げるのか、そして過去を超えられるのか? 質問と疑問に対して、正々堂々と、決して逃げずに、答えを出してみよう。 こういう人生を、こういう生き方を、思い切り楽しんでみよう。 KAZUさんよ、タイトルに負けるなよ!

手話サークル

命・生きる力

興奮した馬のように口を開けてバカ笑いする女子高生の集団は、とてもうるさい。
やたらと騒がしい。何がそんなに可笑しいのだ。ただ鉛筆が転がっただけなのに。

しかし同時に、反対のことを考える。そういう感情の起伏が、私は羨ましいのだ。
頭をペコペコ下げているうちに、肩に乗ったものが加算されるたびに、年齢を重
ねるたびに、私の感性の塊は少しづつ削り取られる。波打ち際の岸壁のように。
だから眉間にしわを寄せて、ももいろクローバーZは下らないと言ってはいけない。
少なくても、キャンディーズのコンサートに行ったことがある人間としては。

37年前のコンサートのように、わたしは身体がフワフワして、地上から2センチ
浮き上がっていた。その理由は、GWの初日というだけではない。
短い首を伸ばして、長くして、待ちに待った舞台「命・生きる力」の日だった。

ゴールデンウィーク(GW)は、わたしのゴールデンルール(黄金律)と無関係だ。
ニワトリのように毎朝4時に起きて、ストレッチと筋トレ、ランニングをするのが、
わたしのゴールデンルール。朝食後に、前夜に放送された「手話ニュース845」の
音声を消して繰り返して3回見る。ゴールデンルール(黄金律)は自分との約束。
できることはやる。できないことはしない。お楽しみの舞台の前は特に念入りに。
旅行に出発する前に、お正月の前に、気合いを入れて掃除をするように。


わたしは、自宅近くの停留所から京成バスに乗った。このバスに乗ったら、葛飾
シンフォニーヒルズに到着するはずだった。これが大きな間違いだった。それでも
わたしは特に慌てない。こういうことは、私の人生に頻発することだから。
(原因は準備不足である) わたしの乗ったバスは
亀有行きではなく、市川駅行き
だったために四ツ木駅前で降りた。わたしは、何一つ不満を口にすることなく、口笛
を吹いて浮かれる訳でもなく、落胆するでもなく、おまけに自己反省することもなく、
京成電車に乗り換えた。そして2つ目の京成青砥駅で、わたしは下車した。

方向音痴コンテストが開催されたら、私はかなりいいところまで行く自信がある。
しかし、その実力を発揮する必要は全くなかった。青砥駅の改札口を出てから、
現地までを案内する人が、「命・生きる力」のチラシを持って等間隔で立っていた。

その案内する人の中に、耳に補聴器を付けている、メガネの奥の瞳がキラキラと
輝いている20代の男性がいた。わたしは男性に向かって、右手を拳にして左腕を
トントンと2回続けて叩いた(ご苦労様です)。男性の表情は、一瞬で変わった。
五月晴れの笑顔になった男性は、懸賞金を受け取るお相撲さんのように素敵な
手刀をきってくれた(ありがとう)。いま考えると、この辺りから、わたしの涙腺は
パンツのゴムが伸びたように、だらしなく緩み始めていたのだろう。

舞台が始まると、わたしは後悔の念が沸き起こった。私は携帯すべきだった。
普段から持ち歩かないハンカチ、ポケットティッシュ、さらに言えば、水分吸収性
に優れたパイル地のタオルを、わたしは持ってくるべきだったのだ。
(後悔すべきは、その原因は、いつものように、やはり準備不足)

舞台「命・生きる力」についての内容や感想について、わたしは語らない。
私のド下手な文章では、この舞台の素晴らしさを、十分に表現できないからだ。

ただ1つ、わたしは、わたしの個人的私見を書き記したい。
それは、この舞台に取り入れたユニバーサルデザイン(UD)について。
簡単に言うと(簡単に言うべきではないが)、障害のある人と、障害のない人が、
一緒に観劇を楽しめるシステムだ。本公演の出演者を含めて、観劇に来られた
沢山の方には、目の見えない人、耳の聞こえない人、車いすの人など、障害の
ある人が沢山お見えになっていた。また、ろう学校、盲学校の子どもたち300人
が招待された。その子供たちは舞台の前列の方で観劇していた。楽しそうだった。

そこには伸びやかな表情があった。柔らかくて、気兼ねのない、弾けるような自然
の笑顔があった。子どもたち、大人たち、そこにいるだれもが、自宅にいるような、
気の合う友達といるような、安心した笑顔があった。この笑顔の理由は、この舞台
のための環境としてのユニバーサルデザインがあり、その為の尽力してきた人の
気持ちがあり、人と人との相互理解があるからだと、わたしは思った。

2015年4月29日 かつしかシンフォニーヒルズ モーツアルトホール
午後2時〜4時 舞台「命・生きる力」 ありがとう!

(笑顔は)元手が要らない。しかも、利益は莫大。
与えても減らず、与えられた者は豊かになる。
一瞬間見せれば、その記憶は永久に続く。
どんな金持ちも、これなしでは暮らせない。
どんな貧乏人も、これによって豊かになる。
(笑顔は)家庭に幸福を、
商売に善意をもたらす。

(笑顔は)友情の合い言葉。
(笑顔は)疲れた者にとっては休養、失意の人にとっては光明、
悲しむ者にとっては太陽、悩める者にとっては自然の解毒剤となる。
(笑顔は)買うことも、強要することも、借りることも、盗むこともできない。
無償で与えて初めて値打ちが出る。
デール・カーネギー(20世紀前半の米国の自己啓発権威・講演家・著述家、1888〜1955)
『人を動かす』−クリスマスの笑顔

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天使の森からの贈りもの(貴方にとっての生き甲斐)

あなたにとって生き甲斐とは?

生き甲斐を失くしている母親を、いつも心配している一人娘。
しかし、娘には娘の夢がある。これから娘は東京へ旅立つのだ。

娘から母へのアドバイスに対して、それまでは九十九里海岸の
ハマグリのように押し黙って聞いていた母親が、猛然と反論した。
母は、その肩を上げて、その肩を落とし、目を開いたり、伏し目
がちになったりしながら、じつに重苦しい胸の内を展開した。

(母親の反論)
生き甲斐だって?そんなの無くたって、あたしは生きていけるわよ。
だってそうでしょう、世の中、みんながみんな生き甲斐をもって楽しく
生きている訳ではないでしょう。ただ何となく生きて、ただ死んでいく。
そういう人だって沢山いるでしょう。あたしの場合は、こういう環境
なんだから、仕方ないじゃない。つまらない環境、つまらない人生。
そうよ、だってこれがあたしの持って生まれた運命なんだから!

突然の反論を受けた娘の表情が変わった。ショートヘアの下の
大きな目が更に大きくなり、赤くなり、斜め上にギュッと吊り上った。
余裕のないメスキツネが怒ったときの目だ。プチッと、娘がキレた。
母親に娘がキレた。娘が地元の友達と一緒に踊る地方再生ダンス
のキレとは、あきらかに種類の違うキレだった。

(娘の反論)
つまらないのは環境じゃない、お母さんが、つまらない人間なのよ!!


わたしは舞台の5列目の端に座っていた。目の前の舞台からの台詞
が吹き矢のように飛んできて、わたしの胸にグサグサと突き刺さった。
このお蔭で、私はなんども確認することになった。わたしの左胸に、
ポッカリと穴が空いていないか...。グサグサ〜ポッカリ〜グサグサ。
さらに、真っ赤に燃える火鉢のような熱い会話の応酬が続く。

(娘と友達、娘から友達への愚痴)
環境のせいにしたり、誰かのせいにしたり、何かのせいにしたり......
そんなことが問題じゃないのよ。結局は、本人にやる気が無かったら
生き甲斐なんてものは、見つからないのよ!

(娘と友達、友達から娘への反論)
確かに..そうかもしれない。でもね、そういう人に何かを気付かせて
あげるとか、キッカケを与えてるとか。そういうことは家族や、周りに
いる人の役目というか、優しさというか、そういうことなんじゃないの!

西新宿の関公協ハーモニックホール、”天使の森からの贈りもの”
という舞台を私は観ていた。(2015年4月3日(金)14:00〜15:30 )
わたしは一人で電車に乗り、ひとりで座り、ひとりで笑い、ひとりで
考えたり、一人で手を叩いたり、一人でポロポロと涙を流したりした。

わたしが貴田みどりさんの舞台を観劇するのは、これが三度目である。
わたしは、そのうちの2回は泣いている。もちろん、正確に説明するなら
最終的には、三回とも笑っているのだが。

手話を勉強している私が、貴田みどりさんにお会いするのは、少年野球
のイチロー選手への憧れと同じである。イチロー選手に褒められた少年
が高揚して 「僕は、将来メジャーを目指します」 と同じように、みどりさん
から、手話検定1級の受験を「凄いです!」と褒められた私は「手話通訳
士を目指したい!」 と手話(説明)をしたのだ。そして、天使が微笑んだ。

わたしは”天使の森”のような、みどりさんの笑顔を目の当たりにする。
満開のソメイヨシノが思わず嫉妬を感じてしまう、優美な笑顔である。
そして、わたしは思った。もっともっと、手話が上手になりたい。
こういうふうに、下の方からフツフツと湧き上がってくるのが天然温泉
であり、または、私の生き甲斐だと、わたしは思ったのだ。

総武線の各駅停車千葉行きの座席に揺られながら、わたしはスマホの
写真を確認した。みどりさんとの写真をニタニタと眺めながら、わたしは
考える。これまでの私の生き甲斐とは、あらためて、何だったのだろう?

(これまでの、わたしの生き甲斐について)
思春期のときは、大人みたいに遊ぶことだった。
サラリーマンのときは、課長島耕作みたいに出世することだった。
脱サラしたときは、ハヤブサみたいに事業を軌道に乗せることだった。
プチメタボのときは、東山紀之みたいに、身体をギュッと絞ることだった。
マラソンのときは、快速ランナーみたいに3時間切り(サブスリー)だった。

反対方向に大腿骨が折れる〜手術〜車椅子〜リハビリ〜、私は考える。
わたしは、いろいろなことを、いろいろな方向から、いろいろと、考えてみる。
これまでの私の生き甲斐は、果たして、本当に、正しかったのだろうか?
いや、その答えは明確だった。もちろん、なにも悪くない。なにも問題ない。
そのときは、そのときに、そのときの頭で、私が感じて、私が考えてきたのだ。

ただ1つ、いまの私が考えるところ(部分)がある。
これまでの私の考え(生き甲斐)は、いつも私が主体となっていたことだ。
もちろん、当然である。わたしの人生は、私が主役(主体)だから。
まず、優先順位はわたしである。いつでも表側は自分(家族等含む)である。
その上で、その後で、自分の後に、自分以外が良くなる、という順番だ。
自分さえ良ければいいとは考えないが、あくまでもスタートは、自分だった。

就職は、職種や仕事内容より、大企業で安定している(給与)ことだった。
脱サラは、従属的なサラリーマンより稼げることだった。
社会のためとか、お客様のためとか、仕事に誇りを持つとか、やりがいとか
そういうものを最初に考えて、わたしはスタート(選択)した訳ではなかった。

例えば、第三者のための募金(裏側)はするが、募金活動(表側)はしない。
ボランティア活動の後方支援(裏側)はするが、自分では(表側)やらない。
自分は裏側にいる人間だから、そういうことは表側にいる人間がやればいい。
表側と裏側を1枚の紙に置き換えたら、そこにはハッキリした線が引いてある。
わたしは、このハッキリと区分けされた線の内側にいる、安定している人間だ。
そう考えていたのだ。そういうものだと、わたしは思っていたのだ。

わたしに、ことの本質を気付かせてくれたのは、ほんの一瞬のことだった。
それは、私の意志ではなかった。わたしは転倒して、左大腿骨を骨折した。
手術〜車椅子〜リハビリ〜。わたしは、あの線の内側から外側へ行ったのだ。
いやおうなく、あっと言う間もなく、一瞬のうちに、私はあの線を越えていたのだ。

そのときになってから、その後になってから、わたしは少しづつ分かってきた。
いままで線の内側にいたこと、わたしは傍観者だったこと。いままで線の内側
から眺めていたこと。わたしは、今までは、対岸の火事だと思っていたのだ。

外側に入った私が、内側にいたときの、わたしに対して思うこと。
わたしが内側に戻ってきたときに、わたしが考えなくてはいけないこと。
これから、わたしが取り組まなければいけないこと。

これまでのように、わたしは内側にいてはいけない。
外側のことは、それが出来る人がやれば良いのだ、と考えてはいけない。
わたしは、この線の外側に行かなければいけない。
今度は、わたしの意志で行く、わたしは主体的に行動するのだ。

この想いを具現化してくれたのが、わたしと手話の出会いだった。
NHKの「みんなの手話」に出演している、貴田みどりさんとの出会いだった。

わたしは、手話学習と手話サークル(ボランティア活動含む)を通して、
こうやって線の外側に自分を置いて、わたしは楽しく活動する。
線の外側にいる人と一緒に、心を通わせることが出来る。
(外側に一歩踏み出せば、私の下手な手話でも、ろう者は喜んでくれる)
線の内側から外側に行く人(手話勉強中のひと)と価値観を共有できる。

(そして、ここからが大事なことである)
線の外側にいると、ここは線の外側ではなくて、線の内側にいることが分かる。
この線が怪しくて、あやふやなで、誤解や偏見や差別を発生させるのが分かる。
ただ現実問題としては、この線が存在するのは否定できないことだ。
しかし、この線をもっと薄くしたり、あるいはもっと見やすくしたり、線の高さを低く
する等の取り組みを立案企画、実行するのは、ほんの一部の人間だけではなく
社会全体で共有するテーマ(課題)として取り組まなければいけない。線に対して
社会はもっと自然に、もっと優しく、もっと自由に、寛容で温かくなければいけない。

いま、わたしには生き甲斐(夢、目標を含む)がいっぱいある。
たとえば、マラソンを走りたい。たとえば、手話通訳士になりたい。
マラソン、手話などの体験を題材にした小説を書きたい。

あらためて、わたしが思うことがある。
わたしの生き甲斐とは、まさしく昨日の舞台の台詞の如くである。
いろいろな場面で、いろいろな人との出会いがあり、いろいろなことがヒント
になり、キッカケとなり、アドバイスがあり、わたしは支えられてきた。
そういうことが集約されて、わたしを創ってくれた(ここを、忘れてはいけない)。

これが、このわたしの生き甲斐になっているのだ。

人間の生きがいとは、自分が誰かの役に立ち、誰かを一瞬でも
幸福に出来ると感じることに尽きると私は思います。
瀬戸内寂聴(小説家・天台宗の尼僧、1922〜)『人生道しるべ』

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手話検定試験の3級に挑戦すること(7・最終回)

第9回 全国手話検定試験 3級試験日 平成26年10月12日(日)
◎試してみませんか?あなたのコミュニケーション能力
◎試験内容 実技試験のみ   ◎受験のめやす 手話学習1年半くらいの方
◎単語数約800〜1000程度   ◎受験料4,320円

僕はまるで鳥取砂丘で迷子になったジャミラだった


濃紺ジャケットと黒パンツの女性(試験官)が入って来ると、ざわざわとした
教室の空気がピリッと引き締まった。いよいよ始まるんだ。ノミの心臓の鼓動
が少しだけ速くなる。女性試験官の手話による注意事項の説明が始まる。
筆記用具以外は机に置かない、試験の質問なし、気分の悪くなったときは挙手
などの手話がすらすらと簡単に読み取れた。僕の手話は上達していると思った。
しかし、それは勘違いだった。もう一人の試験官の話す声を聴いていたのだ。

「あと10分後に試験が始まりますのでトイレの方は今のうちにお願いします」
そのときある光景が視界に入ってきた。2列前隣り(将棋でいうと桂馬の位置)
に座っている茶色いパーカー姿の女性が黒いショルダーバッグから取り出した
爽健美茶(ペットボトル)を美味しそうにごくごくと飲んでいる。目尻を3ミリ細め
て、まるで中秋の名月を眺めているように、さも満足そうに飲んでいたのだ。

あぁ~飲みた〜い、喉がカラカラに渇いていることに気付いた。僕はまるで
鳥取砂丘で迷子になったジャミラだった。もう何かを飲みたくて飲みたくて
たまらなくなった。この大学内のどこかに行けば、自販機があるだろう。
しかしあと10分しか時間がないから、それは無理な話しだ。こういう現象は
マラソンのスタート前に急にトイレに行きたくなるのと基本的に同じである。

つまりこれは精神的問題である。僕は冷静に、完璧に、自己分析をしたが
自己枯渇についても完璧な状態に到達していた。はぁ〜かぁ〜カラカラ〜
干からび〜。もうこうなったら、思いきって言いたいことを言ってみよう。
「その爽健美茶を少し飲ませて下さい」いや、そんなの無理に決まっている。
ノミの心臓では、いや恐竜の心臓でも無理だ。出来ないものは出来ない。
もちろん常識的に考えて、とても大切な試験の前に、麗しきミセスロビンソン
に対して、そんなことを言うべきではないのだ。オーマイガーファンクル!

このままではダメだ。こうして座っている訳にはいかない。僕は立ち上がった。
さぁ〜どうする、どこへ行く?行く場所は2つしかない。このまま敵前逃亡して
自宅へ逃げ帰る、もう1つはトイレだ。えっ、トイレ?そうだ、トイレの神様だ。
にんまりした。そうだ、トイレで水を飲めばいい、日本の水道水は秀逸なのだ。
ここが日本で良かった。日本に生まれて良かった。せっかちなハエのように
僕はトイレの石鹸で手をゴシゴシと洗った。そして両手を合わせて船(手話)
の形にして、僕は両手の水道水をごくごく飲んだ。ふぅ〜ぷっふうっ〜〜。

食道を通過した水道水(45cc)が胃に到達したときに、突然僕は我に返った。
いったい何をやっているのだろう、何を焦っているんだ、何に対して僕は緊張
しているのか。そんなことをあれこれ考えながらトイレの鏡を覗き込んでいたら
血の気のない東京タワーのロウ人形から人間の顔に徐々に戻ってきた。

どうして緊張するのか。いや、そもそもこれが緊張なのか、僕は考えた。
手話検定試験3級に対して僕が緊張する必要は?答えはノーだ。
3級試験の勉強は出来た。合格するための勉強はしたから必ず合格する。
これは単なる確認行為、別の表現をすれば、これは目的地ではなく通過点。
だったらどうしてこんなにソワソワしているのだい? あっ、それ分かった。

僕は新しい体験をしているのだ。月面に初めて降り立ったアームストロング
船長のように、僕はいま新しい一歩を踏み出そうとしている。初めての西千葉
初めての千葉大学、そして初めての手話試験、このワクワク感、この高揚感は
こうした新しい一歩から発生しているのだ。

次から次と初めての体験ばかりの子供の頃は、若かった頃は、いつだって
ドキドキした。初めて幼稚園、初めて中学生、初めてビール、初めてのデート
初めて給料など、いつも何かが気になり、何かを意識して、だれかに恋をして
淡い期待と手痛い挫折を繰り返してきたのだ。そして30〜40代、50歳が過ぎて
いくと、身の回りには経験済みの色褪せたセピア色した写真ばかりだった。
”青春のうしろ姿を人はみな忘れてしまう”。 これ、ユーミンの卒業写真。

いいや、まだまだ、身体とアタマはもっともっと鍛えられるはずだ。
もう1度フルマラソン? それはもちろん、いつかは走れるはずだ。
ギター&ドラム、もっと上手に弾ける、もっと軽快に叩けるはずだ。
ボクシングだって、どんどん?いや少しづつは上達していく。

自分で自分に負荷をかけて、その壁を楽しみながら乗り越えていく。
楽しみと苦しみを重ね併せながら、さらに新しい自分を創造していく。
(ここで言う苦しみとは、将来楽しくなるための”田植え”)
自分を肯定する生き方があるとしたら、そういうことではないか。
あのサブスリーのように憧れの手話通訳士まで到達できるかは分からない。
しかし少なくても、手話の勉強を始めたことに、こうして勉強を続けていることに
すべての要因に対して、僕は心から感謝している。そこは本当に良かったと思う。

人というのは、いつ死ぬか分からない。
ボーッとしてたら、あっという間に終わってしまう。
だから、まず一生をどうやって生きていきたいのかというところから、
きちんと考え直したほうがいい。そして勇気を出して、自分が決めた
新しい生き方で第一歩にチャレンジしてみる。
これは危ないかもしれないと思っていたことを、
思い切ってやってみるんです。

養老孟司(解剖学者、1937〜)『プロ論。』

チャレンジして・・・




手話検定試験の3級に挑戦すること(6)

新しいことはすぐに忘れてしまうが、古いことは案外と覚えている。

JR西千葉駅の改札口を出たとき僕は確信した。この記憶は間違いない。
昭和35年から平成26年10月12日まで半世紀と4年、JR西千葉駅に降りた
のはこれが初めてだ。AM8時43分、改札口を出ると頬をかすめた風の中に
少しばかりの湿気を感じた。大型の台風19号が北上しているから、あるいは
単なる先入観だろうか。空を見上げたら偉大な太陽はサンサンと輝いていた。
”台風がくる?そんなもの俺様には関係ないぜ”とでも言っているように。

がらんとした小さなロータリーの左手にサブウェイ(サンドウイッチ店)がある。
条件付きではあるが帰りに立ち寄ろうと思った。この試験が上手くいったら....。

目の前の信号を渡ると千葉大学の南門があり、そのまま校内を進んでいった。
元気なのは小学生か中学生か、その両方か分からないが、親御さんと一緒の
子ども達がやたらと目についた。えっ〜近頃の子供達は手話検定を受けるの?
この育ちざかりが54歳のライバルになる?まるで収穫前のリンゴのように僕は
青くなったが、しかしそうではなかった。それは何かの学力テストらしく、その旨の
誘導看板が道標として貼り出してあった。子ども達より親御さんの方が緊張して
いるようだ。いや人様のことは言えなかった。自分の顔だって制作途中の鉄仮面
みたいに、不恰好に引き攣っていたのだから。

僕は受験票のハガキの地図を何回も見ながら、地図の方向に身体の向きを何回
も変えながら、紅葉の始まった樹木を何回も仰ぎながら、ようやく試験会場の校舎
に到着した。地上2センチほどフワフワと浮き足立ちながら、僕は教室に入った。

座席は3人用の長机と椅子3脚があり、その机の両端に受験番号は置いてあった。
真ん中の席は空いている。真ん中の椅子も空いている。僕は、空いている真ん中
の椅子にリュック鞄を置こうかと少し考えたが置かなかった。先に着席したからと
言って、真ん中の椅子に鞄をどかっと置いてしまったら、後から端席に座った人が
愉快な気分にはならないと思った。だから、リュック鞄は自分の椅子に背負わした。
あらためて教室を見回してみると、鞄を真ん中の椅子に置いている人が70%くらい
足元に置いている人が30%くらいだった。間もなく座席の端に40代の女性が僕に
優しく会釈しながら座った。口角を少し上げた完璧な会釈だ。きっと彼女の手話は
表情が上手なんだろうと思った。ところが彼女は、今度は素敵な会釈も言葉もない
まま、おもむろに真ん中の椅子にベージュのショルダーバッグを勢いよく落とした。
”これは私の椅子だから”という空気が僕の左半身を押し込んだ。へ〜そうきたか
と思った。でも僕は気持ちを切り替えた。今は試験のことだけを考えようと思った。

常に沈着冷静でいられる方法は、
「思いもよらない事が必ず起こるぞ」ということを、覚悟していることです。
「準備というのは、必ず不完全なものなり」と思っていることです。
西堀栄三郎(登山家・化学者・第一次南極越冬隊隊長、1903〜1989)

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手話検定試験の3級に挑戦すること(5)

改めて言うまでもないが、人の気持ちが分かることは素晴しいこと。
でもそれは、そんなに単純なことでも、そんなに簡単なことでもない。
例えば相手のことを考えているようでありながら、実は自分本位だったりする。
やはり大切なことは、”相手のことを分かろうとする気持ち”だと思う。


(他者への)想像力はみんな持っています。
でも、鍛えないと磨り減って鈍くなってしまいます。
瀬戸内寂聴(小説家・天台宗の尼僧、1922〜)講演会「若者への遺言」より

(2011.8.5 宮城県七ヶ浜ボランティアセンター)
男性はたぶん30代後半〜40代前半だろう。東銀座の花形歌舞伎役者のように
よく通る声だ。「ボランティアの皆さんにお願いが1つあります。ここでの写真は
撮らないで下さい!」 瞬間的にその場の空気をぎゅっと圧縮するような声色だ。
迷いがなく自信のある人間が自信たっぷりに語り掛けるときに魅せる、遠山の
金さんが片腕を出した(遠山桜)時のように寸分の隙もない威圧的な表情である。

そういう人間に対して僕はなにも反論ができないのだ。すぐに萎縮するのだ。
遠山桜を見せられる前に、”あ〜そうかい”と”べらんめい口調”に変わっただで
小心者の僕はびびってしまう。しかしだからと言って納得なんかしていなかった。
”えっなに、どうして?”という気持ちだった。何故なら、ここで目の当たりにした
現状を写真に撮ってブログに貼り付ける、東京で待っている家族に見せて一つ
ひとつ説明しようと僕は考えたのだ。そういうことはテレビニュースを見るより
より身近な人間が体感したこと、直接語るほうが説得力があると思ったのだ。
そのことに対して自分に何の疑いも感じていなかった。僕は正しいと思った。
しかしそれは、次の説明を聞くまでは、ということだったのだが....。

ボランティアセンターのリーダーの説明が続く。芯の強そうな厚みのある声だった。
「ご覧の通りここら辺りにあった家々は津波で流されました。長年住み続けた家が
流されたのです。そしてここに住んでいた沢山の方が亡くなりました。ここのガレキ
処理は重機だけでは出来ません。だから人手が必要なんです。だからボランティア
なんです。そのボランティアの方が写真を撮ることが、どういうことか分かりますか。
皆さんのご自宅が津波に流されて、ご家族を失くされて、そこにボランティアの方が
お手伝いに来てくれて、そのボランティアの方が思い出の自宅跡で写真を撮って
いる行為を、それを見た皆さんはどう思うのか、そこのところを考えてみて下さい」

ここは新小岩、荒川決壊により流された自宅の敷地跡で写真と撮っている人々。
その場面を僕は想像する。ボソボソと話す、その声を想像してみる。
”ここが玄関で、ここがリビングだったんだね、ここにアンパンマンの三輪車がある
から、これも写真に撮っておこう”。リーダーの云わんとしていることの意味について
僕はようやく(全部ではなく、その一部ではあるが)理解することができたのだ。

"put yourself in their shoes.「相手の靴に、自分の身をおいてみなさい」

ボランティアセンターに長渕剛の直筆メッセージの大きな横断幕が掲げてある。
あっそうか、彼は(長渕剛)ここに来たんだと思った。僕は帰りのバスに乗る前に
首に巻いたタオルで汗を拭きながら(ぼっ〜としながら)その横断幕をしばらくの
あいだ眺めていた。そこに書かれているメッセージを読んだ。とても読みずらい
くせのある字だった。疲れているときは、いや疲れていないときであったとしても
そういう字を読むことは気が進まないはずなのに、その時は無性に読みたかった。
その筆跡を眺めていた僕は、嬉しさと悲しさとがぐちゃぐちゃに交錯した不思議な
気持ちになっていた。

あのリーダーを思い出した。僕は横断幕を見ながらそのときの場面を想像する。
ここに長渕剛がいて、ボランティア帰りの僕に対して「ありがとう、お疲れさま」と
声を掛けたと仮定する。それはどんなに嬉しいだろうか、と思った。たった1日
だけのボランティア、自分は被災者ではないのに、僕は図々しい奴だと思った。

長渕の奥さんで元女優の志穂美悦子さんが宮城県七ヶ浜町(しちがはままち)
でボランティアとして約1週間、活動していたそうですね。それも普通に一般受付
での活動だったそうで本当に頭が下がります。マスクをしていたせいか?気付か
ない方も大勢いたそうです。悦子さんは避難所や災害センターでの雑用や物資
の移動、個人宅の泥だしなどテキパキと大活躍だったそうです。
http://70fc959470.seesaa.net/article/200731085.html


帰りのバスが出発してすぐに隣りの初老男性がぐぅ〜ぐぅ〜とイビキをかき始めた。
その不規則な音声を聴きながら僕は何だか微笑ましいような嬉しいような気持ち
になる。まだ高速道路にも乗ってないのに、かなり疲れているんだなと思った。
そう考えていた僕の意識は、すぐに底なし沼の中へどんどん沈んで行った。

"put yourself in their shoes.「相手の靴に、自分の身をおいてみなさい」

手話の勉強を始めようと考えたときに、そのボールを蹴ってみたくなったときに
僕の目の前にボールをパスしてくれたのは、これまでのいろいろな経験だった。
ただそのうちの1つは、きっとこのときの体験だと僕は確信している。

手話の勉強を始めたキッカケは、確か8年くらい前なんですけど
(グループ名)V6の握手会が行われたときに、ろうの女の子が
僕の前のきて手話で話しかけてくれたのですが、僕は手話が全く
分からなったので、そのとき何も答えることが出来ませんでした。
それがずぅ〜と気にかかっていて地域の手話講習会に通いました。
講習会を卒業したあと5年間のブランクがあるので、この番組を
担当するのにあたり、初心に帰って視聴者の皆さんと一緒に勉強
したいと思います
。(三宅健 NHK「みんなの手話」より)


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